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旧山陽道 7

JR長府駅〜長府宿




長門・長府宿

JR長府駅前





下関市清末(きよすえ)を抜けると、長府に入る
元の豊浦郡長府町で、昭和12年に下関市に編入された

JR山陽本線の長府駅は、明治34年、山陽鉄道が厚狭から馬関間の開通と同時に開業している

駅の東側(下写真)を旧山陽道と現在の山陽道(国道2号線)が
線路に平行して、南北に走っている

この山陽道の先(上写真、東側)は、以前は海であったが、今は埋め立てられ
火力発電所や、ブリジストン、神戸製鋼等の工場地帯になっている


(山口県下関市長府松小田本町)


長府宿町並み





旧山陽道の長府宿町並みである

長府は日本書紀の穴戸豊浦宮の地とされ、長門国の国府の所在地であった

中世には長門守護所や長門探題が置かれ、西国防衛の要衝で
近世には長府藩の城下町として栄えたところである

なお、地元の人はこの道を「乃木さんとおり」と呼んでいる
陸軍大将の乃木希典は地元長府藩士の子であった


(山口県下関市長府)


維新発祥之地





さらに進み、鳥居前通りを左折した所に、維新発祥之地碑がある

元治元年(1864年)、高杉晋作がここ長府の功山寺で、決起(回天義挙)し
歴史を大きく展開させたのを記念して建立された石碑とのこと


(山口県下関市長府)


忌宮神社







鳥居前通りを西に進むと、目の前に忌宮(いのみや)神社の鳥居がある

忌宮神社は、長門国二の宮である

仲哀天皇、神効皇后が、九州熊襲平定の折
ここに仮の皇居豊浦宮を建て、7年間政務を司ったが
筑紫で崩御した後、その神霊を祀ったのが始まりである

説明板によると、忌とは斎と同義語で
特に清浄にして神霊を奉斎する意味とか

3枚目の写真は、毎年8月に行われる
山口県の指定民族文化財に指定されている奇祭
数方庭(すほうてい)の大幟に使用される竹だ

2本繋ぎで使用され、長さ30m、重さは100kgを越えるとのこと


(山口県下関市長府)



荒能稲荷社、八坂神社





忌宮神社境内ある荒熊稲荷神社と八坂神社

稲荷神社は、文化・文政年間(1801〜29年)、長府藩主毛利元義が
参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷に詣で
分霊を勧請して創建したもの

八坂神社は、明治末年の神社合祀推進に伴い
近隣の神社10社を八坂神社に合祀しまとめられたと説明にあった


(山口県下関市長府)



宮の内茶寮、蚕種渡来之地記念碑





忌宮神社境内にある宮の内茶寮は和食レストラン(上写真)
毛利家家老屋敷跡にある楽々庵の別館とのこと

郷土料理やフク料理が味わえる

茶寮の横にある大石(下の写真)は、高さ6・3m、重さ37トンの堂々たる石碑である
毛利家が外浦に置いてあった秋穂山の大石を利用したものだ

今から1800年も前の昔、中国の秦の始皇十一世の子孫功満(こうまん)王が
来朝・帰化した時、この地に滞在していた仲哀天皇に蚕種(カイコの卵)を献上したのが
日本の養蚕の始まりであった

その記念碑である


(山口県下関市長府)


宿祢の銀杏、忌宮神社正面





宿祢(すくね)の銀杏(上写真)
忌宮神社の祭神となっている仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた
武内宿祢が植えたと伝えられる銀杏

今でもその子孫が繁茂しているとのこと

下の写真は、忌宮神社正面である
左の巨大な常夜灯には驚いた

なお、この忌宮神社の境内に律令時代は
国衙、国分寺、長門鋳銭所があったと推定されている


(山口県下関市小月本町)


武家屋敷練塀、武家屋敷門










忌宮神社の正面を出て、右に曲がると長府藩の武家屋敷町となる
見事な練塀(ねりべい、関東では土塀)が続くところである

立派な屋敷門(2枚目写真)を潜る
ここは松嘯館(しょうしゅうかん、元松岡家)跡である

裏門(4枚目写真)より出ると、直ぐ近くに乃木神社がある


(山口県下関市長府)


乃木神社



旅順攻略し、明治天皇に殉死した乃木希典を祀った神社
境内には、乃木将軍が育った家が再現されいていた


この後、国分寺跡、武家屋敷、練塀の続く小路、そして長府毛利邸跡に行く


(山口県下関市長府)
0806/0809


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