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旧長崎街道 4

筑前・木屋瀬宿〜遠賀川




筑前・木屋瀬

木屋瀬宿・東構口





高速道路、九州自動車道を潜ると
遠賀川(おんが)沿いにある筑前六宿の二番目の宿場、木屋瀬(こやのせ)宿に入る

写真はその東方の入り口付近、東構口(かまえぐち)跡である
下の写真は構口傍の家で、かつては醤油の醸造業を営んでいたとのこと


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)


木屋瀬宿三丁目広場





旧街道右側に休憩所と大きな木屋瀬宿の案内板がある

木屋瀬宿には遠賀川の河岸と福岡藩の番所、御茶屋(本陣)があった
なお、この木屋瀬の地名は、木材を貯蔵した木屋に因むとか

江戸時代は、この木屋瀬と黒崎は宿場町、商業町として賑わっていたが
この二つ以外の地域は、今では信じられないが純然たる農村地帯であった


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)


旧長崎街道街並み







木屋瀬宿街並みである

2枚目写真左側、3枚目写真右側の家並みでも判るように
木屋瀬宿は矢止めと言われる家並みと成っている

家の並びが直線ではなく、鋸の歯の様に凸凹になっているのだ
また、街道からの路地は総て袋小路となっている
宿場の治安警備のしやすさを考えた家並である

1枚目写真右側の家は、古民家を利用した江戸あかり民芸館となっている
医師佐藤伸一氏の所蔵品320点が展示されている


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)


永源寺小路



右側、永源寺参道である
奥に山門が見えるが、この寺の裏門にはかつての御茶屋(本陣)の門が残されている

永源寺は、大永3年(1522年)に、大字金剛からここに移転された
寺名は年号の大永を分割して、佛山源寺としたとのこと


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)



旧長崎街道街並み





上の写真の中央部の小路を左に入ると、筑豊電鉄の木屋瀬駅がある

その途中には古い家並みが続き、その先には西元寺や須賀神社があるところだ


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)



西元寺、須賀神社





上の写真は西元寺で、天正10年(1582年)の開基

下の写真は須賀神社で、永享年間(1428〜1441年)に建立されたが
その後荒廃していたのを、寛永2年(1625年)に地元の豪商伊藤宗伯が再建した
江戸時代までは祇園社と呼ばれていたが明治になって須賀神社となった


毎年の7月に古くから行われている祇園祭では
高さ9m以上もある「岩山」が有名であった
はりぼての岩を高く積み上げ、その上に人形を飾っていた様だ

しかし、大正初期の電線の架設以来は、高さ4mほどの人形飾山(かざりやま)となっている

また、8月に行われる木屋瀬盆踊りも古くから伝わっている
享保年間(1716〜1736年)に木屋瀬の人が伊勢参りした時に
その土産に習ってきたという伊勢音頭に
大名行列の供奴の掛け声と仕草を取り入れたもので
地元の人は宿場踊りと呼んでいる

これは福岡県指定無形民族文化財となっている


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)



筑電、木屋瀬駅前



筑豊電鉄の木屋瀬駅前である
この小路の前方左側のこんもりした森が須賀神社である


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)



郡家跡、問屋場跡








旧街道に復帰する
1枚目の写真が郡家跡、3枚目写真が問屋場跡である

郡家とは、郡内の村役人と藩の役人の集会所として使われた家で
大名などの通行の人馬割当、年貢の調整、普請の打ち合わせなどを行っていた様だ


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)



みちの郷土史料館






北九州市立のみちの郷土史料館

隣接する「こやのせ座」と共に、江戸時代の町家を思わせる建物の中には
江戸時代からの道具や資料が展示されている

「こやのせ座」は芝居小屋の外観、内観を持つ桟敷席付きの多目的ホールとなっている


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)


長徳寺




元は天台宗の寺であったが
嘉禎元年(1235年)、聖光(鎮西)上人の寄寓の縁で浄土宗の寺になった

慶応2年(1866年)の小倉藩騒動の時、佐賀藩の宿陣となった寺である


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)



船庄屋跡(梅本家)




遠賀川河岸で、「川ひらた」と呼ばれる年貢米を運ぶ権利を持つ川船を
管理していたのが船庄屋(梅本家)であった

江戸時代末期で24艘の川ひらたを保有していた
また、当主の梅本家は油屋(やましも)の屋号で、酒醸造業も営んでいた

明治に入って醤油醸造にも携わったが明治10年代で廃業したとのこと
なお、この建物は江戸末期の建築で、木屋瀬宿を代表する町家の一つとなっている


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)


旧高崎家








高崎家は屋号を柏屋(かねたま)と云い
豪商であった本家柏屋(こちらは、かねしめ)の7代目
高崎四朗八義辰(寛政7年生、1795年)が分家して創立した家

文政8年(1825年)から町年寄りを勤めていた

当家の5代目は、放送作家伊馬春部(本名は高崎英雄)として
ラジオドラマ「向こう三軒両隣」や「屏風の女」等で活躍した人である

この建物は天保6年(1835年)建築と推定されている
内部が公開されている

ここで生まれた方からのメールによると
頼山陽や伊能忠敬がこの家に寄宿したことがあり
高杉晋作を床下に匿ったこともあったとのことであった


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)



村庄屋跡





2枚目写真は村庄屋跡である

 木屋瀬には、村全体を統括する村庄屋、旅籠など宿内を統括する宿庄屋
そして、川船を管理する船庄屋の3つの庄屋があった


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)



遠賀川





上の写真は、愛宕山護国院で
明応2年(1493年)に源水により八幡西区香月の聖福寺の末寺として創建された

木屋瀬宿の西構口を抜けると遠賀川の土手に出る(2枚目写真)
旧長崎街道はこの川沿いの道であった

また、此処には「従是右赤間道、左飯塚道」の道標が立っていた
赤間道とはこの遠賀川を渡って唐津へ向かう街道である

次は、遠賀川上流の、旧長崎街道3番目の宿場・飯塚宿となる


(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬)
0806/0811/1003


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経路 青線部











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