旧長崎街道 5
筑前・飯塚宿〜JR飯塚駅
筑前・飯塚
遠賀川・芳雄橋
木屋瀬宿からこの遠賀川沿いに南下したところに飯塚宿がある
旧長崎街道、3番目の宿場だ
飯塚宿は嘉穂(かほ)平野にある宿場である
縄文・弥生時代から開け、前漢との交流もあった先進地で、穀倉地帯でもあった
江戸時代は遠賀川水運の河岸と長崎街道の宿場町として栄え
また、明治になってからは筑豊炭田の中心地としても繁栄してきたところだ
また、飯塚は麻生首相の出身地でもある
川の畔に、飯塚宿の案内図と祇園太鼓の銅像があった(3枚目写真)
(福岡県飯塚市吉原町)
飯塚宿北構口
旧長崎街道の飯塚宿の北構口(かまえぐち)跡である
ここが宿場の入り口であった
3枚目の写真は、判読しにくいが、飯塚宿寶月楼跡と刻まれている
飯塚宿に訪れた文人墨客の集まったところで
江戸末期の歌人、大隈言道(ことみち)の定宿でもあった
(福岡県飯塚市宮町)
須佐宮、納祖八幡宮
旧街道右手崖の上にに須佐宮と納祖(のうそ)八幡宮がある
この下は、かつては船着場として賑わったところであった
納祖神社は、神功皇后が朝鮮出兵の帰途
此処で祭壇を飾り戦勝報告をしたのが始まりとのこと
その時、別れを惜しむ郷民に
「何日か逢う」と言ったのが「いつか=飯塚」の語源と伝えられている
(福岡県飯塚市宮町)
旧長崎街道、飯塚宿
ここから、旧長崎街道はそのままアーケードとなっている
入り口には飯塚、祇園山笠と描かれた大きな看板があった
かつての飯塚宿の中心地である
アーケード内は、西流と書かれた赤い幟がたっていた
西流とは、飯塚祇園山笠の4流の一つとのことである
4流とは、菰田流、東流、新流、西流を指す
(福岡県飯塚市本町)
問屋場跡、森鴎外文学碑
旧街道左手に飯塚宿問屋場跡碑と森鴎外文学碑がある
明治34年、小倉第12師団の軍医部長として
衛生隊演習のため、飯塚に逗留したこと記念して建立されたようだ
碑には、森鴎外の「小倉日記」より飯塚の件が刻まれていた
2枚目の写真はからくり時計で知られた紀乃国屋書房である
定時になると、象と大名が乗った馬、オランダ人が現れ
その下を大名行列が通るという趣向の様だ
(福岡県飯塚市本町)
太養院参道
右手小路奥に太養(たいよう)院と明正寺
太養院は、元香積寺(こうしゃくじ)であったが
旧鎮西村明星寺の再興の時
この寺で食事の用意を行ったことから、太養院と改称したという
この時、飯を作りすぎ、塚の様であったことから
飯塚の地名になったとの伝承も残されている
(福岡県飯塚市本町)
鉤の手
飯塚宿の出口付近は街道が枡形になっている
この先は、クランク型に街道が曲がっているところだ
大きな、飯塚宿の説明板があった
この絵を模したような、宿場祭りが毎年11月開催されると言う
おいらん道中や仮装行列が賑やかに行われるとのことであった
(福岡県飯塚市本町)
アーケード出口、西構口
この付近が飯塚宿出口付近であったようだ
旧長崎街道は、飯塚宿を抜けると穂波川沿いを内野宿
そして冷水峠を越えて、山家宿へ出る
此処まで来ると大宰府は直ぐ近くとなる
(福岡県飯塚市本町)
嘉穂劇場
飯塚宿の外れにある芝居小屋、嘉穂(かほ)劇場
桟敷や木造桝席、回り舞台などがある
古い木造建築の芝居小屋だ
昭和6年から続いていると言う
なお、嘉穂は郡名からきている(元嘉穂郡飯塚町)
(福岡県飯塚市飯塚)
穂波川・飯塚橋
穂波川は飯塚宿の東側で遠賀川に合流している
この辺は合流点の少し南側で、地名から推しても
真
菰(まこも)の群生する湿地帯であったのであろう
旧長崎街道は、ここから穂波川沿いの道となる
穂波川に架かる飯塚橋を渡り、次の宿場・筑前内野へ向かう
現在の県道473号線である
(福岡県飯塚市西菰田)
金光教、普遍寺
街道左側に金光教飯塚東協会、そして普遍寺とある
金光(こんこう)教は所謂教派神道13派の一つ
安政6年(1859年)に金光大神が創唱したもので
本部は岡山県金光町にある
(福岡県飯塚市西菰田)
JR飯塚駅前
JR飯塚駅口交差点である
2前目の写真は飯塚駅を見た写真だ
飯塚駅はJR筑豊本線の駅だ
篠栗線、前後の鹿児島本線と合わせ
博多〜黒崎間で福北ゆたか線とも呼ばれている
福岡市の福、北九州市の北、そして筑豊地区の豊(ゆたか)を
組合わせた運転系統の愛称となっている
JR飯塚駅は市街地からかなり離れている
寧ろ、新しくできた新飯塚駅の方が近い
(福岡県飯塚市西菰田)
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