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旧長崎街道 7

大宰府政庁跡~観世音寺




筑前・太宰府

大宰府路





関屋橋を渡り、学業院中学の前を抜けると、大宰府遊歩道が出来ている

左前方が大宰府政庁跡である
広大な敷地跡は、嘗ては、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれただけの事はある
平城京のおよそ1/3の広さであったと推定されている

大宰府は、西海道(九州)の中心であった
ここから、九州の各地に駅路が伸びていたところである

東京・江戸日本橋を出発して、とうとうここまで辿り着いたという感じであった
旧中山道、鯖街道(若狭街道)、丹後街道、山陰道、山陽道、
そして長崎街道を経由しての大宰府入りである

大分遠回りして来ただけに、その感慨も一入であった
万葉集にも多数登場する、東国からはるばるここまで歩いてきた
防人達のことを思い出した

当時のこと、苦労の多い道程であったことであろう


(福岡県太宰府市観世音寺)


大宰府政庁跡









南門、中門跡から見た大宰府政庁跡である

手前から中門跡、そして大宰府政庁跡、正殿跡、そして後殿と
縦に整然と並んでいた

また、正殿の左右には2棟ずつの脇殿が建立されていた
大きな楚石が多数発掘されており、往時の壮大な建物が想像される

なお、正殿は大宰府長官である大宰師(だざいのそち)が政務を執り
これと関わる儀礼や儀式で、最も重要な役割を果たしたところである

背後の山は四王寺(しおうじ)山(標高410m、旧大野山)で、ここに大野城があった
丁度大宰府政庁を守るように背後に築城されていた

百済からの亡命者の指導で築かれたもので
朝鮮式山城とも呼ばれていた

今でも遺構が残されている


(福岡県太宰府市観世音寺)


大宰府正殿跡、都府楼跡



大宰府政庁跡の正殿跡である

中央の石碑に「都督府古跡」、左側は「大宰府跡碑」
そして右側は新しく大正3年に建てられたものだ


(福岡県太宰府市観世音寺)


大宰府回廊跡





正殿と中門を結ぶ回廊跡
楚石が2列に並び、この上に回廊が建てられていたようだ

下の写真は、万葉集の歌碑で
「小野老 あをにより 寧楽の京師は 咲く花の 薫がごとく 今さかえなり」
と刻まれている


(福岡県太宰府市観世音寺)




大宰府展示館



大宰府展示館は、発掘作業の時に発見された
当時の排水遺構をそのまま遺すために建てられたもの

排水溝の跡を保存処理をしてそのまま展示されている
その他、出土品や資料、模型が展示されている


(福岡県太宰府市観世音寺)



大宰府学校跡







大宰府天満宮の方に向かって左側に大宰府学校跡がある

ここで学んだ後、試験に合格すれば役人として採用された様だ


(福岡県太宰府市観世音寺)



戒檀院、観世音寺





天平宝宇5年(761年)設置された戒檀(かいだん)院(上写真)

奈良時代に奈良東大寺、下野薬師寺と並んで天下三戒檀の一つとして設置された
西国の僧尼に戒を授けた道場である

百済救援のため、九州に下った斉明天皇が筑前朝倉宮で没したので
母の菩提を弔うために建立を始めたのが観世音寺である(下写真)

しかし造営が進まず、実際に完成したのは天平18年(746年)であった


(福岡県太宰府市観世音寺)



大宰府市役所



右手に大宰府市役所

太宰府市は、博多湾に注ぐ御笠(みかさ)川流域を占める市
元筑紫郡大宰府町で、昭和15年に市となっている

庁舎の壁には、韓国の扶餘邑(ふよゆう、百済最後の都、泗沘(しび)
のあったところ)と友好都市となり
祝30周年と書かれた大きな幟が下がっていた

大宰府に相応しい姉妹都市である


この後、御笠川沿いを遡上し、大宰府天満宮に向かう


(福岡県太宰府市観世音寺)
0806/0812


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