6幸手宿
幸手駅前
東武日光線の幸手駅に着いたのは朝の8:00であった
日光道中徒歩の旅の再開である
今回は古河宿までの予定だ
(埼玉県幸手市中1)
幸手宿町並み
日光道中6番目の宿場、幸手宿の町並みである
旧道に沿って「日光街道」の標識があるのは嬉しかった
(埼玉県幸手市中2)
問屋場跡、本陣跡
やがて右側に幸手宿問屋場跡があった
トイレとベンチがあるのは有難かった
下の写真は本陣和久井家跡である
今は割烹・蒲焼の看板を掲げる義語家となっている
和久井家の初代(帯刀)は長野県伊奈郡の豪族で
同郷であった関東郡代の伊奈熊蔵に要請されて幸手宿を作った
(埼玉県幸手市中2)
聖福寺勅使門
街道左の聖福寺(しょうふくじ)
家光が日光社参の時の御殿所として使用していたところだ
御殿所とは将軍の休憩所とのこと
葵のご紋の入った勅使門(唐門)が残されていた(写真)
350年の歴史を持つ四脚門である
将軍の間、勅使の間、そして左甚五郎の作と言われる
彫刻が残されている
なお、例幣使一行は日光の帰路に
ここで休憩したようだ
(埼玉県幸手町北1)
一里塚跡
幸手宿の出口付近にある一里塚跡(上写真)である
街道を挟んで反対側には正福寺である
街道に面して大きな常夜灯がある
また日光道中と刻まれた大きな道標があった
ここで街道は右に直角に曲がっている
宿場の出入り口の枡形である
(埼玉県幸手市北1)
現日光街道、熊野権現社
一里塚の前を通ると現日光街道(国道4号線)と交差する
旧街道は国道4号線の陸橋を渡り反対側に出る
上の写真は陸橋の上より日光方面を見たものだ
陸橋を渡ると、左手に熊野権現社があった
権現堂川の名前の由来となった神社である
この辺一帯が権現堂河岸のあった処である
旧街道は、この後、桜の名所となっている権現堂堤の上の
快適な道となっている(3枚目写真)
(埼玉県幸手市北3)
0803/0804