悠々人の日本写真紀行へ移動します

日光道中ぶらり徒歩の旅 13

権現堂堤〜栗橋




幸手


権現堂堤、母子巡礼の碑







熊野権現社の前を通り、権現堂堤に登る
見事な桜並木となっており、権現堂桜堤とも呼ばれている

この権現堂堤は昭和初期に廃川となった
権現堂川の堤である

かつては利根川の本流が流れており
江戸の洪水予防用として築かれた堤であった

3枚目の写真は母子巡礼の碑である
享和2年(1802年)、長雨のため水位が高まり
終に堤が決壊した

土手の修復に当たったが、激しい濁流で工事が進まずにいた
その時、通りかかった巡礼の親子が
自ら人柱を申し出て、逆巻く流れに身を投じ、工事が出来るようなったという

これに対し、巡礼親子を無理に人柱として、工事を進めたとの説もある
どうも此方の方が真実らしい

何れにしろ、人身御供となった巡礼親子を供養するために
建立された碑である

側に歌碑
「そよ風に 花びらは舞う 巡礼の 碑かこむ 堤の桜」 郷子 


(埼玉県幸手市権現堂)




中川、行幸橋





権現堂堤を下り、旧日光道中を行く

下の写真は中川に掛かる行幸橋(みゆきばし)である
明治天皇行幸記念碑が近くにある

この橋を渡り次の栗橋宿に向かう


(埼玉県幸手市権現堂)




外国府間の道標







栗橋まで旧道が残されている

やがて、右に古い道標がある
安永4年(1775年)に建てられたものだ

左日光堂、右つくば道、東かわつま前ばやしと読める

かわつまは、現在の茨城県五霞町(ごかまち)川妻
前ばやしは、茨城県古河市総和町前林である

ここの地名、外国府間の字は読めなかった
まさか、「がいこくふま」ではあるまいと思って調べてみると
「そとごうま」と読むそうである


(埼玉県幸手市外国府間)




雷電社湯殿社合殿





やがて旧街道の正面に雷電社湯殿社の合殿がある

街道はここでクランク上に右にそして左に曲がり
現国道4号線(日光街道)の下の道を歩くことになる


(埼玉県幸手市外国府間)


外国府間、旧街道





現国道の下を歩いていると、目の前にトンネルがあった
小右衛門南の交差点である

このトンネルを潜ると栗橋町に入る



(埼玉県幸手市外国府間)

栗橋


小右衛門一里塚




さらに進むと左手に、小右衛門(こうえもん)一里塚がある
塚の上には弁財天祠堂が出来ていた

江戸より14番目の一里塚である


(埼玉県栗橋町小右衛門)


権現堂調整池





少し進むと、街道は権現堂調整池(行幸湖)の横に出る
かつての利根川本流跡である

下の写真は権現堂調整池に掛かっている太平橋である


(埼玉県栗橋町小右衛門)



権現堂川







大平橋の横を抜け上流側を権現堂川沿いに進む
実に気持ちの良い道となっている
3枚目の写真は来た道を振り返って(下流側)撮ったものだ

やがて正面に東北新幹線と県道268号線との橋(霞橋)が見えてきた


(埼玉県栗橋町小右衛門)



川通神社





街道は権現堂川から離れ、現日光街道(国道4号線)の下を
潜り反対側の歩道をすくし歩くと、旧街道との岐となる

有名な栗橋の「栗橋大一劇場」の前の道である
その裏手の小高い丘に川通神社があった


(埼玉県栗橋町東)



会津見送り稲荷



街道右側に会津見送り稲荷

会津藩の武士が江戸に書面を届けるためここまで来たが
紛失し、死を決した時、狐の化身である白髪の老人が現れて
死を思い留まらせたと言う

その舞台となった茶店跡に稲荷神社が建てられた

街道はこの先、国道125号線の下を潜ると
日光道中7番目の宿場・栗橋宿に入る


(埼玉県栗橋町東)
0803/0805


前へ 目次 次へ


略 図

経路青線部 距離5.60km













悠々人の日本写真紀行

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他