悠々人の日本写真紀行へ移動します

日光道中ぶらり徒歩の旅 20

乙女八幡宮〜11間々田宿




小山市・乙女


仏光寺・村社乙女八幡宮





街道右手に仏光寺、そして左手に乙女村の鎮守、乙女八幡宮がある

乙女八幡宮の右側の道路を10町程西へ向かうと
思川の乙女河岸(かし)があったところだ

元和2年(1616年)、日光東照宮の造営が始まると
思川は御用川となり、江戸より運ばれた資材は
乙女河岸で陸揚げされた

そして、小山宿経由壬生街道で日光へ運ばれた

それ以前には、関ヶ原の戦いの前の小山会議の後
家康が、この乙女河岸より船に乗り
急遽江戸に戻ったとの記録もある

古くから船の便の発達したところであった様だ
その後も、江戸との船運の要地で、商取引の中心であった


(栃木県小山市乙女)




JR間々田駅入口





間々田駅入口交差点
この信号を右折すると、JR宇都宮線(東北本線)の間々田駅である

間々田駅は明治27年に開業
明治32年には前述の乙女河岸との間に
貨物専用の人車軌道が開業している

鉄道が開設しても、乙女河岸は健在であったようだ
この人車軌道が廃止となるのは大正6年であった

なお、人車軌道とは、人が軌道上の貨車を押して進ませる
トロッコのようなものであった


(栃木県小山市乙女)


思川まんじゅう




駅前交差点の先、左側に製造直売の「思川まんじゅう」店があった

この朝日屋は明治30年の創業とのこと
きんとんまんじゅうが有名で
昭和8年の地元の下野新聞の商品20傑の2位に選ばれている由

本店は高根沢町にある


(栃木県小山市乙女)

11間々田宿



日光道中中間点・逢いの榎、金比羅神社





街道右側に間々田の一里塚

江戸より18里(72km)、日光まで18里と丁度中間点で
「逢いの榎」と呼ばれていた

元は「間の榎」であったのが転訛したようだ

下の写真は金比羅神社である
この辺が日光道中21次の11番目の間々田宿の入口であった


(栃木県小山市間々田)



龍昌寺


金比羅神社の道の反対側(左側)に龍昌寺

江戸時代に、ここの住職が間々田八幡宮の
有名な蛇祭りを発案した由


(栃木県小山市間々田)


11間々田宿町並み









かつての繁栄を伺わせる町並みが残されている

間々田宿は
江戸より下町、中町、上町、土手向町の4町に分かれていた

日光東照宮側が上であった
(東海道、中山道は京都側が上)

写真2枚目は酒屋、3枚目は和菓子の乙女屋で大正元年創業とのこと
4枚目写真右手は質屋であった


(栃木県小山市間々田)


間々田交差点、本陣・脇本陣跡





間々田の交差点を越えると左側に本陣・脇本陣跡の説明板があった

この辺が間々田宿の中心であったようだ


(栃木県小山市間々田)


間々田八幡宮







街道左手に間々田八幡宮
関東の奇習蛇祭り(じゃまつり)で知られたところだ

例年5月5日(元は旧暦の4月8日)に行われる蛇祭りは
栃木県の龍蛇信仰の代表的な祭りである

竹や藁、藤蔓等で作った長さ15〜20mほどの蛇を子供達が
蛇が巻いた(ジャガマイタ)と囃子ながら練り歩き
最後に八幡宮の池に蛇諸共に飛び込むという


(栃木県小山市間々田)


間々田宿出口





左手に古くからの旅館柏屋、右手に天理教教会
この辺が間々田宿の出口付近であったようだ

道は、間々田を離れ、小山市千駄塚に入る
次は日光道中12番目の宿場・小山宿である


(栃木県小山市間々田)

0805/0808

前へ 目次 次へ


略 図

経路青線部 距離3.84km












悠々人の日本写真紀行

TOP 北海道 東 北 関 東 中 部 近 畿 中国四国 九州他