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日光道中ぶらり徒歩の旅 29

17宇都宮宿〜奥州街道追分




宇都宮宿

大欅、民家、JR日光線







街道左側に大欅、その下に鳥居と小さな社がある

ここが現代の追分で、国道4号線は右側の広い道となる
旧日光道は左側である

右側に大谷石で作られた2階建ての倉のある立派な民家があった

3枚目の写真は眼鏡橋より見たJR日光線である
切り通しとなっている


(栃木県宇都宮市陽南)


奥州街道旧追分、不動前交差点





JR日光線の上の通ると、中世の奥州街道の追分である

その分岐部分に不動堂がある
宇都宮宿の目安であった

近世(江戸時代)なると、追分はこの左側の先となった
宇都宮城主の本多正純が、宇都宮宿の西側を通るように付け替えたという


(栃木県宇都宮市不動前)


東武宇都宮線、蒲生君平直旌碑







1枚目の写真は、東武宇都宮線のガードである
この下辺りが、かつての宇都宮宿の木戸(入口)があったところだ

宇都宮宿は奥州街道と日光街道の分起点に或る宿場町で
宇都宮藩11万石の城下町であった

本陣2、脇本陣1、旅籠42軒であった

東武宇都宮線のガードを潜ると右手に蒲生君平勅旌(ちょくせい)碑(2枚目写真)がある
林子平、高山彦九朗と共に、「寛政の3奇人」と言われた人だ

「旌」の字は、広辞苑で調べてみると鳥の羽を旗竿の上につけた旗とある
氏は明和5年(1768年)に宇都宮で生まれた学者・尊王家で
前方後円墳の名付け親でもあった

3枚目の写真は宇都宮藩知事、戸田忠友奉行と彫られてあった
明治天皇の命で、明治2年に、ここに勅旌碑を建立した人だ

この碑の背後に宇都宮城があった
本多正純が家光暗殺を謀ったという釣り天井伝説のあるところだ
最も、事実は異なるようだ

ただ本多正純は、この後、奥州に流されている


(栃木県宇都宮市花房)


熱木不動尊、天満宮






街道左側に熱木(ねぎ)不動尊、そして右手には天満宮があった

熱木不動尊は、宇都宮城の乾の方角の守護であった
康平2年(1059年)、初代の宇都宮宗円が戦勝祈願して彫った不動尊を祀っている

また此の辺一帯は城下町特有の寺の多い一画となっている


(栃木県宇都宮市西原)


旧街道・旧家





街道が小さな枡形になっているところに
見事な旧家があった

樺村味噌店で、今でも醸造・販売をしている


(栃木県宇都宮市西原)


材木通り、ユニオン通り





道幅が広くなり、材木町通りとなる(1枚目写真)
先端の木立は裁判所だ

街道は裁判所の前で右折となる

町名は伝馬町となる
如何にも城下町らしい地名が残されている

材木通りの途中で、ユニオン通りと交差している(2枚目写真)
ユニオン通りは、馬場町と共に、北関東最大の繁華街となっている

この先には東武宇都宮駅があるところだ


(栃木県宇都宮市伝馬町)



近世奥州街道追分








旧日光道は裁判所の前を右折する(1枚目写真)
そして、最初の小幡郵便局の横の伝馬町交差点を左折する(2枚目写真)

ここが、奥州街道と日光街道の近世の追分である(3枚目写真)
日光道中は左折で、旧奥州街道は直進となる


(栃木県宇都宮市伝馬町)

0810/0811

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略 図

経路青線部 距離 2.97km










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