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日光道中ぶらり徒歩の旅 35

日光・例幣使街道追分〜20今市宿〜瀧尾神社




20今市宿

東武日光線ガード



杉並木を歩くと正面に、東武日光線のガードが見えてきた

まもなく、日光道中20番目の宿場、今市宿に入る


(栃木県日光市七本桜)


日光連山





杉並木道から右(東側)に抜けると
目の前に今市宿と背後に雪を被った日光連山が聳えていた

左より男体山(2484m)、大真名子山(2375m)、小真名子山(2323m)
女峰山(2483m)、そして赤薙山(2010m)の山々である

2枚目の写真は女峰山と赤薙山である
山麓にニッコウキスゲの群生で有名な霧降高原のあるところだ


(栃木県日光市今市)


日光例幣使街道追分





日光例幣使街道追分で現在は3本の道がここで合流している

1枚目の写真は、左の杉並木が旧日光街道で、次の道が現日光街道(国道)
そして追分地蔵尊を挟んで、右側の道が例幣使街道である

2枚目の写真は、見事な杉並木の続く例幣使街道だ

例幣使街道は、旧中山道の倉賀野宿から別れ
太田、栃木、鹿沼を経て、ここで日光街道と合流している


(栃木県日光市今市)


追分地蔵尊






日光街道と例幣使街道の合流点には、高さ2m程の大きな追分地蔵尊(石造地蔵菩薩坐像)がある
東日本有数の巨像だ

日光市教育委員会の説明板によると
制作年代は不祥であるが、8代将軍吉宗の日光社参の時には
すでに、この地にあったと記録されている由


(栃木県日光市今市)


20今市宿






日光道中20番目の宿場・今市宿である

本陣1、脇本陣1、旅籠は21軒であった

地名は、江戸時代にここで新しく市が立ったことに因む
古くから交通の要衝で、日光道中、日光例幣使街道、会津西街道の
合流点にある宿場町で市場町であった

典型的な谷口集落である今市は
県内屈指の材木集散地で、建具、木彫品、木炭、線香等を産していた
特に線香は、材料である杉葉と
豊富な水車動力との組合せを活かした名産であった

下の写真は、報徳二宮神社入口で
木製の標柱には「二宮尊徳翁之墓」と書かれてあった


(栃木県日光市今市)



報徳二宮神社





小田原生まれの二宮尊徳が、何故今市と訝ったが
晩年の約3年間、日光山領の農政指導を行い、ここで安政3年(1856年)に没した

その二宮尊徳を祭神として、この報徳二宮神社が創建された

2枚目の写真は、今市田植唄碑で
「至誠勤労 分度に推譲 報徳教えは 今市の宝」
と刻まれている


(栃木県日光市今市)


二宮尊徳墓と報徳文庫







二宮神社の裏に尊徳の墓(1枚目写真左側)と、当地での銅像(2枚目写真)がある

背後の建物は(3枚目写真)は報徳文庫である
二宮尊徳の書籍や遺品を集めて保存されている


(栃木県日光市今市)


如来寺








報徳二宮神社の西側にある如来寺
室町時代中期の創建

寛永9年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営の時
ここに壮大な御殿を建設し逗留したという


(栃木県日光市今市)


本陣跡






再び旧街道の戻る
上の写真は、かつてこの辺に今市宿の本陣のあったところとのこと

下の写真は、美味しい「いまいちの水」(伏流水)と表記された水飲み場である
洒落た休憩場となっている


(栃木県日光市今市)


会津西街道追分






そして、右手には旧会津西街道追分である
この道が、かつての会津西街道であった

下の写真は、現在の会津西街道(国道121号線)の交差点である
左側には「日光みそたれたまり漬」店(上澤梅太郎商店)がある
日光のたまり漬けの元祖とのこと


(栃木県日光市今市)


瀧尾神社






左側に瀧尾神社、今市宿の鎮守である
戊辰戦争の戦火で本殿や、資料をすべて焼失してしまい、創建年代など不祥とのこと

そして、右側に小公園(市緑ひろば)があり
「今市宿、二宮尊徳翁終焉の地」、「明治天皇御小休之跡」の石碑があった
此の辺が、今市宿の出口付近であった様だ

次は日光道中21番目の宿場鉢石(はついし)である
いよいよ最後の宿場である


(栃木県日光市今市)
0812/0812

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略 図

経路青線部 距離 2.27km











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