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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 2

宇都宮・今泉〜稚児坂




宇都宮

八坂神社





田川に架かる幸橋を渡り左折する
旧街道は現在の奥州街道(国道10号線)と重なっている

街道右手に八坂神社がある(上写真)
康平6年(1063年)、当時の宇都宮城主藤原宗園(宇都宮氏の祖)が
本丸築城の時、丑寅の方角に当たるここに、鬼門除の鎮護として神明社を創建した

明治43年に、博労町の八坂神社と合祀し八坂神社と改称された

毎年、春と秋の行われる八坂神社の太々神楽は
江戸時代から続いており
宇都宮市の重要無形文化財に指定されている

八坂神社の先で、現奥州街道は右に大きくカーブしている(下写真)
旧奥州街道は左の道で、今は白沢街道(県道125号線)と呼ばれている

正面のガードは東北新幹線である


(栃木県宇都宮市今泉町)


烏山道追分



東北新幹線のガードを潜り、650m進むと
烏山道との追分となる

かつては、この細い道が烏山道であった
烏山は、現在の那須烏山市の東部にある旧町で
烏山城があったところだ


(栃木県宇都宮市竹林町)


奥州街道・竹林町







竹林町交差点を抜けるとと、道路の両側に、由緒ある古い家がある
岩淵家の見事な長屋門(1枚目、2枚目写真)と四脚門(3枚目写真)だ

長屋門は、江戸時代は名字帯刀を許された庄屋、富裕な農家に限られていた
門の両側の長屋には使用人の部屋や農具の収納に利用されていた


(栃木県宇都宮市竹林町)


宝蓮院





続いて、宝蓮院と、大谷石で作られた塀と立派な民家


(栃木県宇都宮市竹林町)


竹林町・首切地蔵






大きな松の木の手前の路地を入って左側に石仏群がある
ここは、宇都宮藩の刑場のあったところだ

この石仏の右の建物(地蔵堂囲碁将棋クラブ)の建物の中に
首切り地蔵があるとの事であったが、扉が閉まっていて撮影できなかった

江戸時代の根来塚の一つで首塚があったところである
江戸時代初期の元和7年(1621年)、宇都宮城主本多正純が
幕府から差し向けられた根来組百人衆に城普請を命じたが
これに従わなかったので全員を捕らえて処刑してしまったという

そして、首をここに埋めた
なお、胴は近くの白山神社の裏側に埋め、そこは胴塚(根来塚)と呼ばれているとのこと

根来衆は、本来は江戸城守備の鉄砲組である
秀忠の日光参拝に先行して、警護のために派遣されたのであろうか
それを城普請させようとしたが、拒否されたので処刑してしまったのか
それとも、城普請の秘密を葬るために処刑してしまったのか

こんな疑問点が憶測を生み、「宇都宮城釣天井事件」となったのであろう
何れにしろ、この後、正純は出羽に配流され、横手で生涯を終えている


(栃木県宇都宮市竹林町)


海道町・日光連山






海道町に入る
左手に日光連山の男体山(2484m)、女峰山(2483m)
赤薙山(2010m)がくっきり見えた

下の写真は街道沿いにある慶応2年(1866年)に建てられた
顕彰碑「小林清次郎翁報徳の碑」である

説明によると、氏は寛政11年(1799年)生まれで
安政年間(1854年〜1859年)、ここに水路を開き
海道新田の開拓に尽力したようだ


(栃木県宇都宮市海道町)


海道町、並木道






この辺は並木道になっており、歩道も完備し、気持ちよい街道歩きとなる
左に日光連山、そして左前方に高原山(1795m、下写真右)を望んでの快適な街道筋である

地名は海道町で、街道の間違いではない
以前は奥州海道、白沢海道とも呼ばれていた
その海道沿いであるための地名である

なお、海道町の東に隣接する下岡本には
古代延喜式の東山道・衣川(きぬがわ)駅のあったところだ

この辺一帯は古くから開けたところであったようだ


(栃木県宇都宮市海道町)


稚児坂





正面に稚児坂が見えてきた(上写真)
街道や緩い上りとなっているところだ

稚児坂とは、意味深な名前である

建久7年(1196年)、始めて鎌倉幕府により奥州総奉行が設けられ
初代の奉行である伊沢家景が奥州の任地に向かった
その途次、同行の乳幼児であった我が子を亡くし、ここに葬ったという

緩い稚児坂を越え、下りに入ると分岐になっている
左が氏家宇都宮線(県道125号線)で、右が旧奥州街道(白沢街道)である

白沢宿は、もう直ぐである

ここで、右足の踵の痛みが激しくなってきたので
消毒し、持参の大きな絆創膏2枚を重ねて固定する


(栃木県宇都宮市白沢町)
0902/0902/1808


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略 図

経路青線部 距離 8.16km










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