18白沢宿
白沢地蔵堂
稚児坂を越えると、今度は下り坂になる
その右手に白沢地蔵堂がある
建久7年(1196年)、始めて鎌倉幕府により奥州総奉行が設けられ
初代の奉行である伊沢家景が奥州の任地に向かった
その途次の坂道(稚児坂)で、同行の乳幼児であった我が子を亡くしたので
ここに葬り供養の石塔と地蔵堂を建てたという
それから900年もの間、地元の人達により守られてきた
(栃木県宇都宮市白沢町)
薬研坂、枡形道
白沢地蔵堂の前からの坂をやげん坂という(上写真)
眼下に奥州街道18番目の白沢宿が見えてきた
やげん坂とは、この坂が漢方の薬種を砕くのに用いられる舟形の薬研(やげん)に
似ている事から呼ばれるようになった
慶長14年(1609年)、白沢宿として町割が出来る以前より
ここには街道の道しるべとして、大きな2本の榎が植えられていた
丁字路を左に曲がると白沢宿に入る(下写真)
旧宿場固有の枡形になっているところである
信号灯の標識には宇都宮市「白沢宿」と書かれてあった
白沢宿のあった河内町は平成19年3月に宇都宮市に編入されたばかりである
河内は、縄文時代や古墳時代の遺跡が30余も確認された歴史の古い町だ
その地名が消滅するのは少し寂しい気がした
この辺一帯は、平坦な地で、鬼怒川等の水利に恵まれたところであった
河内は湾曲する鬼怒川の内側にある地域の意味で、郡名となっていた
(栃木県宇都宮市白沢町)
白沢宿
白沢宿に入ると街道に沿って、左右に掘割が出来ている
元は生活用水であったが、今は錦鯉が飼われ、水車が回っていた
古い家には、嘗ての屋号を記した木札が掛かっている
白河宿は本陣1、脇本陣1、旅籠13軒で
宇都宮で日光道中と別れてからの奥州道中最初の宿場であった
関ヶ原の戦いの前、家康の上杉攻めの時
白沢村庄屋の宇加地家と、上岡本村の庄屋福田家が
家康軍の先導をした功績により
ここに往還宿を設けることが許され、白沢宿が誕生した
両家は問屋場と本陣、脇本陣を務めることになった
(栃木県宇都宮市白沢町)
白髭神社
白沢村村社白髭神社
白沢宿の産土神だ
境内には白沢宿七福神の大黒天も祀ってある
(栃木県宇都宮市白沢町)
白沢宿・本陣跡
写真は白沢宿本陣跡だ
前述の白沢村庄屋であった宇加地家が白沢宿の本陣を営んできた
この本陣跡には、今でも江戸末期に建てられた建物があり
秋田藩や大田原藩、盛岡藩の宿札(関札)が残されているという
また、道路を挟んで反対側には、上岡本村の庄屋福田家が脇本陣を営んでいた
(栃木県宇都宮市白沢町)
番所・町並み・明星院
現在の白沢町駐在所である(1枚目の写真)
木札には奥州街道白沢宿の会、番所と記されている
3枚目の写真は明星院で
白沢宿七福神の布袋尊あるところだ
(栃木県宇都宮市白沢町)
枡形道
白沢宿の出口付近にある宿場特有の枡形だ
ここを右に曲がる
(栃木県宇都宮市白沢町)
九郷半川
枡形道を右に曲がると、九郷半川にかかる九郷半橋である
ここが、かつての白沢宿の出口であった
河畔には古い石柱と道祖紳(3枚目写真)、そして白沢宿の標識(4枚目写真)である
九郷半川とは、9つの郷と1郷の半分の田を潤すという意味だ
河畔にある大きな松ノ木のある家は、仙台屋の木札が掛かっていた
奥州街道沿いらしい屋号だ(1枚目写真)
(栃木県宇都宮市白沢町)
白沢・旧奥州街道
白沢宿を出ると、目の前は広大な田圃である
田圃の中の一本道を真っ直ぐ南東に向かう
次は鬼怒川を渡り、対岸のかつての阿久津河岸へと向かう
(栃木県宇都宮市白沢町)
0902/0903