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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 7

JR氏家駅〜弥五郎坂




さくら市・氏家

JR氏家駅



上野発6:50の快速ラビットに乗り、宇都宮駅で乗り換えて
氏家駅に着いたのが朝の8:38であった

前回中断した此処から、今回は旧奥州街道に復帰である
雲一つ無い快晴であった

氏家宿、喜連川宿、佐久山宿、大田原宿、鍋掛宿
そしてJR黒磯駅までが今回の予定で、1泊2日予定のぶらり徒歩の旅の出発である

さて、どうなることやら先のことは分からないが、いざ出発! だ


(栃木県さくら市上氏家)


光明寺



氏家宿の旧奥州街道右手にある青銅不動明王坐像で知られた光明寺だ
この坐像は高さ3mの憤怒の像で、露天に鎮座(露座)している

宝暦9年(1759年)に宇都宮の71歳の名鋳物師、戸室卯兵衛の作という
栃木県の指定文化財となっている

なお寺伝によると、光明寺は、元は勝山城の傍にあり
開基は天喜4年(1056年)とのことである

慶長2年(1597年)、勝山城が廃城となると同時に現在地に移った様だ
そして、北関東三十六不動尊霊場の第22番札所となっている


(栃木県さくら市氏家)



会津街道追分



直進すると会津西街道と会津中街道で、旧奥州街道はこの信号を右折する

会津西街道は氏家から大内経由会津までの道だ
会津中街道は、氏家から三斗子屋経由会津への道である


(栃木県さくら市氏家)


原街道追分、五行川






会津街道追分を右折し、五行川の手前で、今度は原方街道との追分となる
上写真の道が旧原方街道である

原方街道は氏家から高久経由で白河とを結ぶ道である

下の写真は五行川に架かる五行川橋だ
五行川は、利根川水系の小貝川の支流で、勤行川とも書かれていた

鬼怒川の水が伏流水となり、氏家の町の各所で湧き出て川となっている
これが、この五行川や大沼川、冷子川、井沼川の水源となっている

氏家は地形的に、湧水の豊富な町となっている


(栃木県宇さくら市氏家)


薬王寺




街道左側に、室町時代初期の応永31年(1424年)開基の薬王寺
本堂は、文政8年(1825年)に改築された由


(栃木県さくら市桜野)


滝沢家住宅・長屋門






見事な長屋門を備えた滝沢家の屋敷である
栃木県の有形文化財建造物に指定されている

滝沢家は、明治になり紡績等の事業で財をなした旧家で
明治25年、氏家町で陸軍の大演習が行われた時に
この家が明治天皇の休息所となった様だ


(栃木県さくら市桜野)


四脚門




旧奥州街道沿いの此の辺桜野地区は
滝沢家、庄屋であった村上家等、立派な門構えの屋敷が続いているところだ


(栃木県さくら市桜野)


八幡神社




左手奥に八幡神社

桜野地区の産土神である
古くから相撲が盛んで、境内には土俵が作られている

八幡神社を過ぎると、街道は家並みから外れ
広大な畑の中の一本道となっている


(栃木県さくら市桜野)


旧奥州街道、農家






街道の両側は、広々とした田園地帯であった
左前方には那須連邦が見え隠れしていた

民家の庭先には見事な鯉幟
もうすぐ端午の節句なのだと、変なところで一人感心していた


(栃木県さくら市桜野)


狭間田一里塚






松山集落に入ると
右手民家(阪本家)の屋敷内に奥州街道一里塚が残されていた

下の写真の左奥の祠のあるところだ
道路から見えないので、許可を得ての撮影であった

日本橋から32番目の一里塚で、氏家では唯一の現存例である
この先を右折すると、那須烏山、仁井田方面である


(栃木県さくら市狭間田)


弥五郎坂






やがて、目の前に弥五郎坂が見えてきた
江戸を出て、初めての本格的な坂とのことであった

その上り口右手に、新旧二つの大黒天

この古い大黒天(左側)の台座に、明治時代の水準点が刻まれている珍しい例だ
この辺一帯は水田地帯で、適当な不朽物が無かったので
大黒天を拝借した様だ

奥州街道を東京より順番に測量してきて
ここが45番目の高低標にあたり、測量結果は
標高521・6858尺(158.0866m)であった

旧街道は、左側の細い道である(上写真)
この弥五郎坂を越えると、奥州街道20番目の宿場・喜連川となる


(栃木県さくら市狭間田)
0902/0904


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略 図

経路青線部 距離 4・53km












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