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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 8

さくら市・早乙女〜荒川





さくら市

弥五郎坂(旧早乙女坂)





大黒天の傍を抜けると、今での旧氏家町から旧喜連川町早乙女に入る

江戸を出て、初めての本格的な坂である
これから陸奥に向かう実感の湧いてくるところだ

坂道左手に古い馬頭観音と二十三夜供養塔があった


(栃木県さくら市早乙女)


早乙女坂古戦場





弥五郎坂の頂上付近に、松尾弥五郎博恒墳墓と刻まれた碑がある
この階段を上がったところに早乙女坂古戦場の碑と五輪塔を納めた小さな祠がある

下の写真は氏家方面、古戦場跡を俯瞰したものだ

現在は弥五郎坂となっているが、もとは早乙女坂(五月女坂とも)と呼ばれていた
戦国期の天文18年(1549年)、宇都宮氏2000余騎と那須氏500余騎との間で
激戦・早乙女坂の戦いが展開されたところである

この戦いで宇都宮氏側の総大将であった宇都宮尚綱が戦死し
宇都宮氏側が敗退した

この尚綱を討ったのが、那須氏側の鮎瀬弥五郎で
その時の恩賞10貫文で、敵将である尚綱の菩提を弔う為に
ここに五輪塔を建てたという

それ以降、この坂を弥五郎坂と呼ばれるようになった


(栃木県さくら市早乙女)



早乙女温泉





弥五郎坂の長い下り坂である
この下が喜連川宿である

坂の途中に早乙女温泉があり、驚いた(下写真)
日帰り入浴専門(入浴料1000円)で、道沿いにはログハウス(個室)が立ち並んでいた

地下1300mから汲み上げている硫黄泉で、73度Cの高温泉で
加水して水温と、硫黄の濃度と下げているという


(栃木県さくら市早乙女)


セブン・ハンドレッド・クラブ






さらに進むと、左手にセブンハンドレッド・クラブ(上写真)がある
これには驚いた

実は、若い時、何度かゴルフで来たことがあるところだった
会社の親睦団体がここの法人会員になっていたからである

当時は車で来ていたが、殆ど覚えていなかった
まさか、歩いて又来るとは思ってもいなかった


(栃木県宇さくら市早乙女)


河東碧梧桐句碑




坂を下ると左側に、河東碧梧桐(かわひがし へきごどう)の
雄渾(ゆうこん)な句碑(右側)がある

「坂を下りて 左右に藪あり 栗落つる」
と独特な書体で彫られてあった
この坂で詠まれた詩とのことだ

碧梧桐は正岡子規の門下の詩人である
子規歿後は、虚子と共に俳壇の双璧と言われた人だ

他に、「春風や 道標元禄 四年なり」
「春寒し 水田の上の 根なし草」 等々


(栃木県さくら市早乙女)


羽黒集落






前方の視界が開け、羽黒の集落に入る

この坂の先が喜連川である


(栃木県さくら市羽黒地区)


荒川・勝善神




旧奥州街道が荒川の手前に見事な枝垂れ桜の木
樹齢130年とのこと

その下には勝善神と彫られた大きな石碑がある
厩を守る神とのことだ

東北地方や栃木、茨城で江戸時代後期から信仰された神のようだ


(栃木県さくら市荒町地区)


荒川・連城橋






旧街道は荒川の土手の上を歩く(上の写真)

この荒川は、今まで左手に見えていた高原山釈迦岳(1795m)の
南斜面の水を集めた川で、ここ喜連川で内川と合流し
那須烏山市向田で那珂川に流入している

旧街道は、この土手を通り、前方に見える連城橋を渡ると喜連川宿となる
江戸時代にも橋が架かっていた
洪水でも流されない特殊な橋だったと言う

この橋を渡ると、いよいよ奥州街道20番目の宿場・喜連川宿(写真左手)に入る

下の写真は、荒川に架かる連城橋から下流をみたものだ
前方の橋は国道293号線の新連城橋である


(栃木県さくら市荒町)
0904/0905


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略 図

経路青線部 距離 2.77km











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