大田原市
若林追分
さくら市から大田原市に入ると、すぐ若林の追分となる
左は氏家方面(県道48号線)だ
標識には「宇都宮・さくら」方面と書いてある
旧奥州街道は直進で、「大田原市街、那珂川」方面である
(栃木県大田原市若林)
与一の里、高久宅の躑躅
旧街道右手に、与一の里銘木に選ばれた高久宅の躑躅群
推定樹齢200年、樹高5mとのこと
そして、下の写真は古い庚申塔3基
側面に文化12年(1815年)と彫られてあった
(栃木県大田原市高橋)
和郷の碑
街道右手に右手に「大田原市藤沢地区土地改良区、
県営圃場整備事業完成記念」と彫られた大きな石碑がある
那須野ヶ原の土地改良の一環の様だ
(栃木県大田原市藤沢)
佐久山宿入口
県道48号線の前坂交差点を越えると、下り坂となる
いよいよ、奥州街道21番目の宿場・佐久山宿に入る
(栃木県大田原市佐久山)
観音堂
坂の途中右側に観音堂
入口には六地蔵や、多数の石仏が集められていた
下の写真左は二十三夜塔である
陰暦の23日の夜、月待ちをすれば願い事が叶うという古くからの信仰だ
なお、月待ちとは供物を備え、月の出るのを待って飲食を共にすることで
講の組織となっていたようだ
(栃木県大田原市佐久山)
21佐久山宿、町並み
佐久山宿に入る
本陣1、脇本陣1、旅籠は27であった
平安末期、那須資賢(すけたか)より、この地を分封された那須次郎泰隆が
佐久山氏を名乗り、その城下町として発達したのが始まりである
なお、泰隆は、あの那須与一の兄である
江戸時代は旗本福原氏5000石の領地であった
福原氏は那須与一の末裔とされる那須七騎の子孫とのこと
2枚目写真は、門に「運用膏」と描かれた古い看板が架かっていた
戊辰戦争の時、良く効く傷薬と評判になった様だ
3枚目のは公衆便所で、道路側の壁に那須与一が弓を射る絵が描かれてあった
(栃木県大田原市佐久山)
村上英俊翁生誕之地
上の写真は、街道左側に建っている
村上英俊翁生誕之の地碑である
石碑の左側背後は御殿山で、かつての佐久山城のあったところだ
村上英俊は、文化8年(1811年)に、下野国佐久山のここで生まれている
佐久山宿の本陣を営んだ村上家の出身で
幕末から明治期の仏学者として知られた人だ
江戸で医学・蘭学を学んだ後、信州松代に移住している
その後、江戸松代藩藩邸内に住み、多数の書物を刊行した
明治18年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与されている
(栃木県大田原市佐久山)
佐久山城址、実相院
この辺一帯は那須氏発祥の地であり、与一の兄泰隆が佐久山城を築き、
家臣団を城下に配置したのが佐久山の始まりである
永禄6年(1563年)に同族の福原資孝に攻められて滅亡、廃城となった
元禄15年(1702年)、旗本の福原資倍が陣屋を築き明治まで続いた
下の写真は御殿山麓にある実相院である
赤い山門は、正徳年間(1711〜1716)に建立されものだ
本堂奥に福原氏代々(28代)の墓所がある
なお、上の写真左部に与一温泉へ1kmと書かれた案内板がある
この道を進むと、与一温泉ホテルがあり、日帰り入浴も可とのことであった
(栃木県大田原市佐久山)
佐久山宿出口、正浄寺
佐久山宿の出口付近で、ここで街道は大きく右に曲がっている
その左側にあるのが、正浄寺である
文明元年(1469年)、本願寺役僧の西山源慶が開基
境内の本堂左側に芭蕉の句碑がある
「石の陰 謡いに似たる 旅寝かな」
那須野ヶ原に立ち寄ったときの句とのこと
(栃木県大田原市佐久山)
箒川、岩井橋
箒川に架かる岩井橋を渡り、次の宿場大田原に向かう
川の上流には高原山(1795m)が見える(下写真)
箒川は高原山の北斜面を源流とする川で、那珂川町で那珂川に合流している
今回は、此処で徒歩の旅を中断して、バスで大田原に向かう
一日3本しか無い、貴重なバス(市営、佐久山・親園方面循環バス)である
(栃木県さくら市大田原市佐久山)
高原山、大田原市街
この日は、大田原の那須プラザホテルに宿泊する
写真はホテルの部屋より撮影した高原山である
未だ雪が残っていた
(栃木県大田原市末広)
0904/0905