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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 12

大田原・箒川〜間宿・八木沢(親園)





大田原市

箒川の朝



大田原のホテルの近くの市営バス停(忍精寺前)より7:00発のバスに乗り
約10分、昨日乗車したバス停(佐久山郵便局前)で下車した

旧奥州街道への復帰である

箒川に架かる岩井橋より下流(東側)を見た写真である
逆光で、良い感じに撮れている

今日も、天気は良さそうである


(栃木県大田原市佐久山)


滝沢・旧奥州街道







岩井橋を渡ると、街道は緩い上り坂であった
街道左側に遠く、高原山が見える

坂の頂上付近に多数の馬頭観音があった
信州ほどではないが、奥州街道も坂道が多くなると結構目立った

江戸時代は特に馬の保護神として広く信仰されていた
建立年月を読もうとしたが風化して読めなかった


(栃木県大田原市滝沢)



養福院





吉沢の集落に入る
左手に養福院、そして四脚門の立派な屋敷がある


(栃木県大田原市吉沢)



吉沢、イトヨ生息地








吉沢には天然記念物に指定されているイトヨ(糸魚)の生息地がある
地元ではトゲウオとも呼んでいる様だ

この辺一帯は那珂川、箒川、蛇尾川等で形成された扇状地の扇端で
豊富な伏流水が湧出しているところだ

綺麗な水に群生した長い水草が揺れていた

そう言えば、中山道六十九次を歩いていた時の
近江、醒ヶ井(さめがい)宿の清流を思い出した

醒ヶ井も湧出口が多く、綺麗な水の中をイトヨが群を成して泳いでいた

小川の畔には、小さなお堂と聖徳太子碑が佇んでいた(2枚目写真)


(栃木県大田原市吉沢)


間の宿・八木沢(親園)





大田原市親園(ちかぞの)に入る
かつての間宿(あいのしゅく)八木沢である

享和3年(1803年)に、此の辺一帯は幕府の直轄領となり
八木沢に陣屋が設けられた
那須郡58ヶ村と塩谷郡4ヶ村を統治したという

今は、その場所は民家となっているが
小川に架かる陣屋橋が残されている

この八木沢を中心に、明治になってから近隣の村を集めて
親園と呼ばれるようになった

間宿、陣屋町としての面影を感じさせる家並みで
立派な門構えに、如何にも裕福そうな大きな屋敷が多い集落であった


(栃木県大田原市親園)


与一の里名木





一際大きな松の木

与一の里名木に指定されている国井宅の赤マツである
推定樹齢200年、樹高7m、目通り周囲1.7mと市設置の説明版に記されてあった

また、町初碑が国井宅の門の中(下写真)にある
「まちはじめのひ」で、寛永4年(1627年)
奥州街道の整備に伴って開かれたことを記念する碑とのこと


(栃木県大田原市親園)


湯殿神社、蒲蘆の碑








親園の外れに湯殿神社
出羽三山れの神社

この境内の小さなお堂に蒲蘆(ほろ)の碑が納められていた
蒲蘆とは、此方では蜃気楼のことを言うそうだ

蜃気楼と善政を結びつけた珍しい碑である

文化9年(1812年)、この地に滞在した僧の高津義克が
善政を行っていた幕府代官山口鉄太郎のことを耳にして文に書き残した

数年後、八木沢陣屋の代官の手代飯岡直蔵がその文を刻んだ碑にしたという

優れた為政者が徳政をすれば、湿地に蒲や蘆(葦)が生えるように
治績があがるといった内容のようだ

善政の誉れ高い代官と湛えられた山口鉄太郎の支配地は
武蔵国、下野国の6万石であった
陣屋は吹上(栃木市)で、八木沢は当初その出張陣屋であった様だ

悪いしきたり(間引き等)を廃止し、ばくちの厳しい取締り、風俗の矯正、
農村の荒廃を救うため農家ごとに漆の栽培促進、
用水堀の整備、新田開発等々で実績を挙げていたようだ

なお、山口鉄太郎は、幕府の北方防備のための北海道、樺太探検隊にも参加し
佐藤行信と共に「蝦夷拾遺」全5巻を書き上げた人物でもある


(栃木県大田原市親園)


百村川




百村川(もむらがわ)を渡り、広い田圃の中の一本道を北に向かう

次は旧奥州街道22番目の宿場・大田原である


(栃木県大田原市親園)
0904/0905


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略 図

経路青線部 距離 2.99km











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