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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 13

百村川〜22大田原宿





大田原市

百村川





百村(ももむら)川に架かる筋違い橋を渡ると、次の宿場・大田原までは一本道だ
両側が開け、冬季は強風・那須颪に悩まされるところであった

かつては、ここから大田原宿まで約3kmに亘り
防風林として、立派な松並木が植えられていた

那須野原で一番美しい松並木と言われていたが
太平洋戦争の時、松根油を採るために、すべて伐採されてしまった

この松根油は、航空機用ガソリンとしての利用が試みられたが
結果として、間に合わなかった様だ
戦後、漁船の燃料に使われたとの記録が残されている


(栃木県大田原市浅香)


八幡神社





気持ち良いぐらい、街道の両側が広く開けている
左側には高原山(1795m)、そして左前方には那須岳(1915m)が見えるところだ

街道右手に注連縄がユニークな八幡神社があった
この八幡神社は、全国到る所にある神社で
稲荷神社に次いで全国2位で1万乃至2万社もあると言われている

もともとは皇室の守護神であったが、平安時代の後期からは源氏の氏神、
そして武家の守護神とされた様だ


(栃木県大田原市浅香)



愛宕神社





奥州街道の22番目の宿場・大田原に入る
上の写真のこんもりした杜は、入口にある愛宕神社である

愛宕神社の前で道は枡形となり、直角に右折する

真っ直ぐ行き、直ぐ左に曲がる道は日光北街道で
江戸時代、日光社参の大名はこの道を利用していたとのこと

なお、愛宕神社は、京都の愛宕神社より勧請して
家康が慶長8年(1603年)に
江戸の防火の神様として、現在の東京都港区の愛宕山に
火産霊命(ほむすびのみこと)を祀った

これに影響されてか、江戸時代中期より全国に広まり
特に東北地方に多い神社となった様だ


(栃木県大田原市中央)



忍精寺



愛宕神社の旧街道を挟んで反対側に立派な境内の忍精寺がある
浄土真宗東本願寺派の寺だ


(栃木県大田原市新富町)


薬師堂







続いて街道左に薬師堂

安永年間(1624〜1644年)に創建されたが大火で消失し
現在のものは寛政5年(1793年)の建立されたものだ

石造の七重塔(2枚目写真)は、貞亨元年(1684年)に建てられもので
共に市の有形文化財に指定されている

ここは、大田原城の西の守りでもあった様だ


(栃木県大田原市中央)


22大田原宿







薬師堂境内より、かつての大田原宿中心街を望む

この道は、現在は国道461号線(日光街道)となっているが
かつての奥州街道で、薬師通りとも呼ばれていた

大田原の町は、天文14年(1545年)、大俵(たいひょう)氏が築城して
その城下町を開いたのが始まりである

江戸時代の天保14年(1843年)には、宿内人口1420人
戸数245軒で、本陣2、脇本陣1、旅籠42の賑やかな宿場であった

この辺に本陣があって、下の写真は現在の新富公園である


(栃木県大田原市中央、新富)


那須与一像




街道左側の大田原信用金庫の前にある那須与一像

文治元年(1185年)2月、屋島の合戦で小船の上の扇子を射抜いたあの那須与一像である

大田原市恒例の与一祭りが例年夏に行われている
地元のヒーローとなっている


(栃木県大田原市中央)


金灯篭






国道400号線との交差点に大きな金(かな)灯篭がある

文政3年(1820年)に造られた灯篭は、太平洋戦争で供出されて
現在のものは昭和54年に造られたものだ

しかし台座は往時のもので、文政2年(1819年)に造られた物だ
西側に「江戸」、そして東側に「白川」と大きく彫られてあり
道標を兼ねたものであった

この交差点は塩原道の追分であった


(栃木県大田原市中央)
0904/0906


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略 図

経路青線部 距離 3.73km










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