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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 14

大田原城〜蛇尾川





大田原宿

旧街道・那須屋



金灯籠のある交差点を直進すると、左手に那須屋がある
江戸時代の太物古着店「那須屋宇兵衛」で、今も呉服店を営んでいる

太物とは絹織物を呉服と言うのに対し
綿や麻織物を指した言葉だ

旧街道はこの先の信号を左折する
此処から、道は宿場らしい枡形になっている


(栃木県大田原市山の手)


寺町



街道は、左折し、直ぐ右折とクランク形になっている

その角に「旧奥州街道 大田原宿 寺町」と刻まれた新しい道標があった
判り難い旧街道沿いに、この道標は嬉しかった

道標の背後は、元旅籠の「上州屋」で
今はホテルみつやとなっている


(栃木県大田原市山の手)



竜泉寺





正面に大田原神社の杜が見えてきた(上写真)

街道左手には龍頭不動明王の龍泉寺(下写真)
北関東三十六不動尊零場の第24番札所となっている

ここの「紙本著色大田原資清と一族の肖像画」が市の有形文化財に指定されている

この寺の裏手にある光真寺には、城主大田原氏歴代の墓所がある


(栃木県大田原市山の手)



大田原神社



正面丘陵の上に大田原神社がある
この背後は蛇尾(さび)川で、この右に連なる同じ丘陵上に大田原城がある

大田原神社は大同2年(807年)の創建と伝えられ
当初は温泉神社と呼ばれていたようだ

大田原資清が大田原城築城の際
城内の鎮守社として遷座し、代々の崇敬社となった


(栃木県大田原市山の手)


大田原城址





大田原神社の前を右にカーブしたところに大田原城址がある

大田原城は、永正11年(1514年)、大俵(たいひょう)氏12代の胤清が
出城を築いたのが始まりである

天文14年(1545年)、13代の資清(すけきよ)が本丸等を築き本城とした
その時、姓を大俵から大田原に改めたようだ
以後、大田原氏代々の居城となる

江戸時代には、大田原藩は外様大名として、1万2416石を領有した
その後、14代270年にわたり在封し、明治まで続いている


(栃木県大田原市城山)


大田原城本丸跡





大田原城本丸跡に登ってみた

今は広い広場となっており、龍城公園として整備されている
本丸跡をぐるっと囲むように、今でも土塁が残されている(下写真)


(栃木県大田原市城山)


大田原市街




本丸の土塁跡より、南西側の大田原市街を見下ろした写真である

実に素晴らしい眺望で
遠く日光連山や、高原山、那須連山が見えた

土塁の上のベンチで休憩した
爽やかな風が、歩き疲れた身には心地よかった

車で来たと言う老夫婦と話が弾んだ
旧奥州街道を歩いていると言うと、驚いていた


(栃木県大田原市城山)


蛇尾川






大田原城跡を下り、蛇尾(さび)川に架かる蛇尾橋を渡る
この蛇尾は、さすがに読めなかった

蛇尾川は、那須塩原市の大佐飛山(1908m)を源流として流れる水無川で
上流部の扇状地那須野ヶ原では伏流水となっている

扇端である大田原郊外今泉でその伏流水が湧出して
大田原市片府田で箒川に合流している

川名の由来は、その有様が蛇の尻尾の様であったからであろうか

調べてみると、サビは栃木県の方言で「斎日」のこととか
祭日を決めて、神様に身を清めてもらう行事を
行った流域を流れる川の意味とのことであった

なお、大雨の時は伏流水とはならず
砂利の上を一気に流れる暴れ川となる様だ

蛇尾川には、江戸時代までは橋は無く、徒歩(かち)渡りであった
今は立派な橋が架かっている


橋を渡り、奥州街道23番目の宿場・鍋掛に向かう


(栃木県大田原市城山)
0904/0906


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略 図

経路青線部 距離 1.01km











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