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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 15

大田原・蛇尾橋〜那須塩原市境





大田原

蛇尾橋



蛇尾(さび)川に架かる蛇尾橋を渡り、左折すると河原地区である
写真は振り返って撮った写真で、左が大田原城跡、右が大田原神社である

蛇尾橋を渡り右折すると黒羽道である(日光北街道、国道461号)
その途中に那須与一の里があり
那須与一が太刀を奉納したと言う那須神社がある街道だ

旧奥州街道は左折で、現在の県道72号線(大田原芦野線)となっている


(栃木県大田原市河原)


河原集落





蛇尾橋を渡り、左折すると河原の集落となる
緩い坂を上り、街道は右に大きく曲がっている

河原の集落を抜けると、両側が開け
左側に広い敷地の富士電機大田原工場がある

正面からの桜並木が見事であった
昭和48年(1973年)設立で、ブレーカーやタイマー、リレー等を作っている工場である


(栃木県大田原市河原、中田原)



巻川、中田原一里塚





箒川支流の巻川を渡ると、街道左側に一里塚が残されている
大田原市指定史跡となっている


(栃木県大田原市中田原)



棚倉街道追分





やがて、棚倉街道の追分となる

写真は、追分にある古道標と聖徳太子碑だ

古道標(左側より2番目)の正面は「南無阿弥陀仏」と彫られてあり
側面には判り難いが、「右たなくら、左しらかわ」と彫ってあるようだ

元禄7年(1694年)建立されたとある

歩いていて、先ず目に付いたのが「黒羽刑務所、
お気軽にお寄りください」と書かれた看板である

一瞬、驚いたが「刑務所作業製品展示場」と下に書いてあった


(栃木県大田原市上深田)


高野槇



市野沢交差点の先に、大きな高野槙(こうやまき)が左側に見えてきた
写真は、振り返った撮影したもので、道の右側になっている

与一の里おおたわら名木に指定されており
樹齢は400年、樹高17m、目通3.1mとある

奥州道中三槙の一つと言われる槙の古木である


(栃木県大田原市市野沢)


弘法大師の碑



市野沢郵便局の手前に弘法大師の碑(写真右端)がある

空海(弘法大師)が訪れた時の句
「蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉」と彫られてあった

また、その右には
「気に入らぬ 風もあろうが 糸柳」
と書かれてあった

こちらは、大正5年の入学生が70歳になった時の記念に詠んだ句とのこと


(栃木県大田原市市野沢)


相の川・高野橋






那珂川支流の相の川に架かる高野橋を渡る

橋の上より左側の正面には那須連山がくっきり見えた


(栃木県大田原市市野沢)


荒屋敷・麻疹地蔵堂








街道左側に荒屋敷の麻疹地蔵堂があった
その横には多数の石仏が並べられてあった

馬頭観世音が多かった

地蔵堂の裏手からは、那須連山が間近に見えた


(栃木県大田原市市野沢)


練貫十文字






綿貫(ねりぬき)十文字である
この辺は交差点を十文字と言うようだ

左に曲がるとJR東北本線の那須塩原駅まで約4kmである

このまま、駅に行き帰宅しようとも思ったが
未だ日は高いので、誘惑に負けそうになったが、断ち切って前へ進んだ

右側が気持ち良く開けていた


(栃木県大田原市練貫)


永代常夜橙




練貫の集落の外れ左側に、永代常夜橙(写真左端)がある

正面に「永代常夜橙」、
側面に「右奥州海道、左原方那須湯道」と刻まれている
道標を兼ねて、宝暦6年(1756年)に建立されたものだ

十九夜塔の右に「旧奥州道中」と彫られた未だ新しい碑(右端)があつた


(栃木県大田原市練貫)


長者谷






街道は緩い上り坂である

右側に長者谷、そして左側に「明治天皇駐輦記念碑」が建っていた
(写真は振り返った撮影したので右側になっている)

まさに、那須の広大な裾野を歩いている感じであった


(栃木県大田原市練貫)

那須塩原

那須塩原市境




大田原市とかつての黒磯市(現那須塩原市)の境である

那須塩原市は、平成17年に黒磯市と西那須野、塩原町が
合併して出来た新しい市名である

由緒ある黒磯の地名を捨て、知名度の高い那須塩原を選んだようだ

右折すると白鳥飛来地として知られた羽田沼である
今年は200羽以上の白鳥が飛来したというから凄い

ここから道は下ると、奥州街道23番目の宿場・鍋掛宿となる


(栃木県那須塩原市)
0904/0906


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略 図

経路青線部 距離 7.27km











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