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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 18

那須塩原・那珂川~24越堀宿





那須塩原・越堀宿

那珂川・昭明橋



鍋掛宿の枡形を抜けると、那珂川河畔である

かつては徒歩渡しであったが、今は立派な橋・昭明橋が出来ている
昭和の新しい時代を明るくと願いを込めてのネーミングとか

橋の袂に、大きな昭明橋架橋記念碑があり
昭和46年竣工と刻まれてあった

この橋を渡り、左折すると旧奥州街道24番目の宿場・越掘(こえぼり)宿である
天領の鍋掛から黒羽藩の領地と変わる

橋を渡り右折すると、かつては関街道と呼ばれた道で
伊王野経由、古代の白河関に通じる道である
現在の県道60号線(黒磯棚倉線)だ

なお伊王野は古代東山道の黒川駅があったところと比定されている


(栃木県那須塩原市鍋掛)


那珂川





那珂川に架かる昭明橋より上流を見た写真である
那須連山が見えるところだ

那珂川は関東第3の大河で、関東随一の清流として知られている
特に鮭の遡上する河川として知られ、獲れた鮭は
江戸時代には水戸藩への献上品であった
また、秋には鮎が遡上し、鮎の友釣りが盛んである

那珂川の源流は那須岳で、茨城県の水戸を通り
ひたちなか市と大洗町との境で太平洋に注いでいる川である


(栃木県那須塩原市越堀)


24越堀宿



越堀宿の町並みである

寛永12年(1635年)、江戸に向かう仙台藩の行列が那珂川の増水の為
ここで、仮小屋を作り逗留したのが始まりで、後の宿場成立に繫がった

鍋掛宿より遅い正保3年(1646年)に正式の宿場となった
本陣1、脇本陣1、旅籠11、総戸数113軒の宿場であった

しかし、明治になって大火があり、宿場の面影は残されていない

街道左側の小食堂を営んでいる藤田家が
問屋を兼ねた元本陣とのことであったが判らなかった


(栃木県那須塩原市越堀)



浄泉寺





街道右側に浄泉寺
多数の無縁仏供養塔が一箇所に集められてあった

2枚目の写真は本堂である


(栃木県那須塩原市越堀)


黒羽領境界石、越堀の大杉





浄泉寺境内のお堂の前に、黒羽領境界石がある(下写真左)

黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにする為
文化10~11年(1813~14年)に境界石を造り、建てたものだ

丁度、増業が大坂城勤務の時であったので、碑を大坂で作らせ船で運んだ由

この標柱には「従此川中東黒羽領」と刻まれてあり
背面には「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」とある

もともとは那珂川の左岸、越堀宿の入口にあったが
大正7~8年に保存の為、ここ浄泉寺の境内に移されたとのこと
那須塩原市の指定文化財となっている

大木の右側は明治天皇御駐輦の碑である


(栃木県那須塩原市越堀)


奥州街道道標、征馬の碑





上の写真右手の石碑は「越堀宿阪本屋」、
そして左の道標には「右これより江戸40里、左これより白河宿七里」と刻まれていた

下の写真は、昭和13年建立の「征馬之碑」と
昭和61年建立の「殉従軍馬之碑」と刻まれている

征馬とは戦場で乗る馬のことだ
共に、戦争で活躍した地元の馬の供養塔である


(栃木県那須塩原市越堀)


越堀宿枡形







越堀公民館前にある石碑
「此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地」と彫られてあった
越堀自治公民館建設記念として、この石碑が建てられたようだ

下写真が越堀宿の出口付近である
この先、道は右に大きくカーブしている

今回は、この先のバス停「杉渡土」で、街道歩きを中断して
15:54発のバスで黒磯駅に向かった(30分、200円)

那須塩原地域バス「ゆーバス鍋掛線」で
一日4本(平日は7本)の貴重なバスである


(栃木県那須塩原市越堀)


JR黒磯駅




JR東北本線の黒磯駅である

黒磯駅を境に北側は交流電化で
南側(宇都宮より)は直流電化区間となっている
このため、東北本線の運転系統がこの駅で分断されている

上野から続いている「宇都宮線」の愛称もこの駅までとなっている

黒磯発16:35の快速上野行で、帰宅した


(栃木県那須塩原市本町)
0904/0906


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略 図

経路青線部 距離 1.41km











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