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旧奥州街道ぶらり徒歩の旅 19

那須塩原・富士見峠〜間宿・寺子〜余笹川





那須塩原

黒磯駅前



東京発6:44のやまびこ203号の予定が
ぎりぎりで一列車早い6:16発のやまびこ201号に間に合った

奥州街道徒歩の旅で、今回は初めての東北新幹線利用となった
さすが此の時間では、自由席もがらがらであったが
途中から込んできた

那須塩原駅で東北本線に乗換え
黒磯に着いたのは当初の予定より40分早い7:47であった

バスの待ち時間を利用して、黒磯の町を歩いてみる


(栃木県那須塩原市本町)


黒磯町並み





黒磯は那須温泉郷の入口で、ここからバスが出ている

以前に、国道4号線(陸羽街道)を車で来た時も
この黒磯駅前通りを左折して那須方面へ向かったものだ
当時、黒磯バイパスは無く、国道は黒磯の街中を通っていた

黒磯の地名は
鎌倉時代に関西の武将黒館五郎、磯勝光が土着したことによるとか
今はその黒磯の地名は消失し、ここは那須塩原市本町となっている

写真は駅前通りの店で上の写真は栃木の酒、天鷹を扱っている酒屋の神山商店
そして下の写真は温泉饅頭と書かれた大きな幟の掛かった明治屋だ

明治屋は明治元年より続いている老舗の和菓子屋で
此処の温泉饅頭は評判で、店頭で蒸かして売っている


(栃木県那須塩原市本町)


黒磯駅前バス停



駅前に戻り、写真左端のバス停より
8:50発の那須塩原地域バス「ゆうバス鍋掛線」に乗った

同じ停留所より那須温泉郷方面のバスは多数発着しているが
鍋掛線は、このバスを逃がすと、次は11:30まで無い


(栃木県那須塩原市本町)


富士見峠





黒磯から25分で前回乗車したバス停「杉渡土(すぎわたど)」に到着する
前回中断した旧奥州街道に復帰である

ここから緩い坂道を登り、富士見峠(286m)越えである
次の宿場、芦野までは23坂7曲がりと呼ばれるしんどい道中となる

下の写真は、富士見峠の頂上付近にあった
安永4年(1775年)建立の馬頭観世音である
左側面に「日光山16里、江戸41里、水戸22里、八溝山6里」
右側面には「湯殿山66里、仙台50里、会津24里、那須湯元5里」と刻まれている

今は寺子十文字の一里塚の手前に設置されている


(栃木県那須塩原市寺子)



寺子一里塚公園





富士見峠を下る途中の寺子十文字の右手前に
寺子一里塚公園が出来ている

元は50m程白河よりにあった、江戸より42番目の一里塚を
小学校建築と、道路拡張の為此処に移築した様だ

そして一里塚公園として整備され、まさに街道のオアシスとなっている


(栃木県那須塩原市寺子)


間宿・寺子、會三寺





寺子の集落である
旧奥州街道の間(あい)の宿であった

下の写真は寺子にある會三寺(えさんじ)で、はしか地蔵で知られた所である

會三寺14代法印旺盛の頃、はしかが流行り幼児が沢山亡くなったので
これを憐れんだ法印が111体の地蔵を彫り、菩提を弔ったとのこと

境内にこの地蔵を納めた「はしか地蔵堂」がある


(栃木県那須塩原市寺子)


余笹川・寺子橋







寺子の出口の余笹(よささ)川に架かる新しい寺子橋

平成10年8月の氾濫でこの左手にあった橋が流され、死者を伴う大きな被害が出たという
下の写真の石碑は翌平成11年に
天皇・皇后陛下が災害見舞いで、行幸行啓された記念碑である

この時の水害は大規模で、この余笹川や黒川、四ツ川、三蔵川が氾濫し
栃木県北部の那須町、那須塩原市で道路や通信が寸断され、死者・行方不明者は6名も出た

2枚目の写真は、余笹川の下流側を見たもので
茨城県と福島県境にある八溝山(1022m)が見えた


(栃木県那須塩原市寺子)


旧街道、寺子地蔵尊








旧街道は現寺子橋より上流側(写真左側)で、街道筋には石仏や地蔵尊が残されている

2枚目の写真は旧街道沿いにある寺子地蔵尊だ
お堂の横には新しい願い文が建てられている

「お地蔵さま絶えない苦悩と切ない願いを聴いて下さい
悠々の余笹川の流れのままに生きぬく勇気を与えて下さい
良き縁を結んで下さい
可愛い子供を授けて下さい
そして幼な児と老いたる身を守って下さい
あなたにすべてを委縋して今日も臆することなく生きていきます
赤沼・石田坂・寺子講中」

と、記されてあった
委縋とは委ね、縋る(すがる)のことであろう
手元の辞書(広辞苑)には載っていなかった

3枚目写真は常夜灯と文政13年(1830年)と刻まれた馬頭観世音だ


(栃木県那須塩原市寺子)


余笹川・上流側



余笹川の上流側である
この辺がかつて渡河地であったようだ

遠く那須連山が見える景色の良い所である
源流は那須連山の旭日岳(1896m)で
那須町と大田原市の境で那珂川に合流している

天保年間(1830〜44年)の余笹川は、川幅16間
増水時では倍近い30間もあったという
今は、穏やかな流れであるが、今も昔も相当の暴れ川であった様だ

なお、江戸時代には橋が掛けられたこともあったが
すぐ流されたので、徒歩や人の肩、輦台(れんだい)で渡ったとのこと

今回は旧道を戻り、未だ新しい寺子橋を渡って対岸の石田坂集落に入る


(栃木県那須塩原市寺子)
0905/0906


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略 図

経路青線部 距離 2.11km











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