比企丘陵
Hiki Kyuuryou hilly terrain

吉見百穴
   吉見百穴は埼玉県比企郡吉見町にある国指定の遺跡である。松山城跡の北側、比企丘陵の西端の山腹にある古代人の墳墓で、全部で219室(穴)が保存されている。発掘当時(明治20年)で237の石室が発見されたとのこと。
   発掘者の坪井正五郎氏は、古代の土蜘蛛人(コロボックル)の住居跡ではないかと発表し、話題となったが、今は古墳時代末期(7世紀頃)の横穴式古墳群と見なされている。
地下工場跡
   吉見百穴の地下には巨大な洞窟が掘られている。今でも一部、中に入ることが出来るが太平洋戦争末期、軍需施設用(中島飛行機の地下工場)として掘られたものだ。
   同じ様な工場跡が、下記の松山城跡地下にも作られている。
比企丘陵 
   百穴の上の比企丘陵の写真である。まだ、武蔵野の自然が残っている所だ。比企丘陵は比企郡中央部から東松山市に広がる丘陵で、秩父山地の東の山麓にあり、西側で標高140m、東側で標高60mの丘陵となっている。
  下の写真は比企丘陵に登って、東松山方面を見た写真である。下を流れている川が市野川である。
   この写真の左手に松山城跡がある。丁度この比企丘陵が市野川の沖積地にせりだした所で、切立った崖となり天然の要害となっている。
  戦国時代、扇谷上杉氏(河越城)と、山内上杉氏(鉢形城)が対立していた頃、河越城の支城として築かれたものである。もともとは、新田義貞が鎌倉攻めの為に、砦を築いたのが始まりとのこと。
  その後、後北条氏時代には、扇谷上杉氏の家臣の上田氏が城主となり、秀吉に後北条氏が滅ばされた後は、家康の命により松平家広が城主となった。
   しかし浜松城に移封(慶長6年、1601年)されると共に廃城となり、取り壊された。今は本丸跡に石碑が立っているのみである。
八丁湖
   吉見百穴から北東に3kmくらいの所の、大きな窪地に作られた溜池が八丁湖である。
   湖の南側の吉見丘陵のほぼ中央にあるのが吉見観音で有名な、坂東第11番霊場である安楽寺がある。奈良時代に行基が開基し、804年に坂上田村麻呂が創建した伝えられている。
   百穴だけでも凄いのに、この八丁湖の北岸(写真右手)に、さらに大規模な横穴古墳群が発見された。それは黒岩横穴群と云う。
   現在発掘されているのは16室であるが、丘陵の森の中には500以上の横穴古墳があると云うから驚きである。
   この辺一帯は比企丘陵県立自然公園に指定されている。なお、丘陵の北部にあるのが国営の武蔵丘陵自然公園である。



ルート

関越自動車道 東松山インターIC
東松山〜吉見百穴〜吉見観音
〜八丁湖〜黒岩横穴群

散策 4時間
駐車場

吉見百穴  無料 約100台
八丁湖 無料 数台
 
休憩所
売店、レストラン、トイレ 有り

8112/0310/0507

悠々人の日本写真紀行 Part1 全国版
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