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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(27)

境川〜沼津
Sakai Kawa - Numadu

清水町・常夜灯
  境川橋を渡り駿河国に入ると、常夜灯が多数目につくようになる。この写真が、おそらくその第一号であろう。均整の取れた見事な常夜灯であった。
  街道筋に設置され、一晩中灯火を点けておくものである。この常夜灯の両側には秋葉大権現と冨士浅間宮と刻まれていた。弘化3年(1846年)に建立されたものだ。
  駿河では地元の火の神様、秋葉神社信仰と結びつき、他の土地に比べ、特に多く設置されている様である。 
宝池寺一里塚
  なお、秋葉神社は静岡県西部の秋葉山(標高870m)の山頂にあり、火之迦具土(ひのかぐつち)神が祭神で、火難除け(火伏せ)の神として広く信仰されるようになった。
  旧街道左側の宝池(ほうち)寺の前に真新しい一里塚がある。昭和60年に改修されたものである。江戸から29番目(114km)の一里塚だ。
  一里塚は、道の両側に5間(9m)四方に10尺(3m)の盛り土をして、榎や松を植えたものである。
玉井寺一里塚
  旧街道を挟んで反対側の玉井(ぎょくせい)寺にある一里塚。こちらは江戸時代から続いたもので、昔の姿をそのまま残している。
  今は便宜上二つに別れて呼ばれているが、もともとは両方の一里塚を合わせて、清水伏見一里塚と呼ばれていたものだ。
八幡神社
  現東海道(国道1号線)の八幡交差点を横断すると、右手に八幡神社がある。この境内に頼朝・義経対面石がある。
  治承4年(1180年)、頼朝挙兵の報に、奥州平泉より駆けつけた義経がここで始めて頼朝と対面したところだ。境内には、その時腰掛けたという一対の石が残されている。
  神社入口に「対面石 頼朝義経兄弟 八幡神社」と大きく書かれた案内標識があった。
長澤松並木
  更に進むと、久しぶりに松並木が残されていた。所々ではあるが、旧街道を歩いている気分になれるところである。
  松並木を抜けると、黄瀬川の手前右側に智方神社がある。鬱蒼とした境内右奥に、護良(もりなが)親王の御陵があることで知られているところだ。
智方神社
  護良親王は倒幕の兵を挙げ、後醍醐天皇による建武新政を招来し、一時は征夷大将軍となるが、足利尊氏と対立し、鎌倉に幽閉される。
  土牢に長期間幽閉された後、建武2年(1334年)足利直義に殺される。その時、側に仕えていた宮入南の方(藤原保藤の女)が、親王の首をここまで持ってきたが、目の前の黄瀬川を渡ることが出来ず、諦めてここに葬ったという。
護良親王御陵
  護良親王の御陵には「後醍醐天皇皇子 大塔宮護良親王御陵」とある。還俗し護良と名乗る前の天台座主の時に大塔宮(だいとのみや)と称していたことによる。
  太平記の中で、父後醍醐天皇との葛藤、そして敗北と、最も悲劇的な運命を辿った南朝の英雄として取り上げられている。その御陵が境内奥の薄暗いところにぽつんとあった。
黄瀬川
  黄瀬(きせ)川を渡ると、静岡県の清水町から沼津市に入る。愛鷹山が夕日に映えていた。
  黄瀬川は、狩野川に合流し、駿河湾に流れ込んでいる。以前は木瀬川と書かれていたとのこと。かつての木瀬川宿駅のあったところである。
  「黄瀬川の亀鶴(かめつる)」の伝承でも良く知られているところだ。
潮音寺
  潮温寺(ちょうおんじ)は、寺の縁起によると、弘仁年間(810〜824年)に弘法大師が伊豆修善寺に修行の砌(みぎり)、ここで観世音菩薩を刻み、一宇(いちう)を建立安置したのが始まりとのこと。
  潮温寺の入口にこの亀鶴姫の碑がある。黄瀬川村の長者、小野善司左エ門政氏の一人娘亀鶴姫が7歳の時両親と死別。
  18歳の時、頼朝が冨士の牧狩りの宴に、再度召されたが応ぜず、この世を憂き事と思い、黄瀬川の上流の百沢の瀧に身を投げて死んだと説明板にあった。
亀鶴姫の碑
  その時、残した歌が
「み仏の 深きめぐみぞ 頼みなる 身は瀧きつ瀬のあわと 消ゆとも」とある。
  もともとは、亀鶴山(きかくさん)観音寺にあったが、明治12年に廃寺となり、ここに移転されたとのこと。
  この説明を読み、変に思った方も多いと思う。「曽我物語」では、曽我兄弟の仇討ちの夜、仇の工藤左衛門祐経と床を共にしていたのが白拍子亀鶴で、仇討ちの後、自殺したとあるからである。
  どちらの伝承でも、この亀鶴姫は賢女で、駿河の三美人とまで言われた評判の女性であったようだ。
沼津領傍示石
  さらに進むと右側に「従是西 沼津領」と彫られた傍示(ほうじ)石がある。傍示石は領地領田の境界を標示したものである。
  いよいよ沼津宿入りである。沼津宿は本陣3、脇本陣3、旅籠55軒もあった。水野家の城下町でもあった。  
日枝神社
  沼津に入り、浪人川を渡ると右手に日枝神社がある。永長7年(1096年)、当時の内大臣藤原師通の夫人の所領地大岡庄に、京都の日吉神社より分祀して建立されたのが始まりとのこと。
  この辺は、かつては大岡庄と呼ばれていた荘園であった。
  境内には芭蕉の句碑があった。「都出でて 神も旅寝の 日数哉」とある。神様が出雲に旅立つ月、神無月(11月)をもじった句である。この時、芭蕉は10月の末に京都を出発し、ここ沼津に着いたのは11月の末であったとのこと。  
沼津駅前
  今回の旧東海道徒歩の旅は、陽が傾いてきたので、日枝神社で中断し、沼津駅より家に戻った。    江戸の日本橋を出立して、早、沼津である。良くここまで歩いて来たかと思うと感無量であった。



ルート
 

境川〜清水伏見一里塚〜八幡神社
〜智方神社〜黄瀬川〜潮温寺
〜日枝神社〜沼津駅


歩行距離 4.73km


休憩所・トイレ

日枝神社・山王公園


名 物

わさび漬、うなぎ、干物


 

笹原新田〜初音ヶ原・錦田一里塚 目次 沼津宿〜千本松原

0412/0604
Hitosh


歩行略図

三島境川橋〜黄瀬川〜沼津駅
歩行 青線部
( 4.73km )






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