悠々人の日本写真紀行へ移動

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(28)

12沼津宿〜千本松原
Numadu - Senbon Matsubara

平作地蔵
  朝8:05、沼津駅で下車して、前回の続きの日枝神社を経て狩野川に架かる黒瀬橋の手前から旧東海道に復帰した。
  旧東海道は沼津署の裏手の狩野川沿いの狭い道である。その道を少し行くと、左手土手下にこの平作地蔵がある。
  近松半二の人形浄瑠璃「伊賀越道中双六」沼津段に登場する高齢の雲助平作が、2歳で手放した子供呉服屋十兵衛と26年ぶりに再会するが、今は敵味方の立場であった。
  平作は十兵衛より、命を捨てて、娘お米の愛人志津馬(渡辺数馬)の父の仇沢井股五郎(河合又五郎)の在所を聞き出して行く。  
沼津一里塚、玉砥石
  通称「親子一世の逢い初めの、逢い納め」の名場面である。この場所は、娘お米が茶店を出していたところだという。 
  さらに少し歩くと右側に沼津の一里塚跡がある。江戸より29里(116km)である。その前にある大小の石柱(大は縦189cm、小は112cm)は古墳時代(今から1200〜1300年前)の石で、この石に付いている数条の直線状の溝を利用して玉類を磨いたという。
  この辺りは古代の駿河国駿河郡(現在の駿東郡)玉造郷と考えられている。狩野川を挟んで反対側の黒瀬橋袂には今でも玉造神社がある。
川郭通り
  川廓(かわくるわ)町は、狩野川に接した狭い町であった。右側は沼津城の外郭に接している。川廓は川曲輪とも記され、狩野川に面した城郭に由来して名付けられた。
  川郭通りとはその川郭町を通っている道で、旧東海道であった。
沼津城跡
  川郭通りを進むと、右手に川郭通りの大きな説明板があった。この先に本丸城郭があった所がある。本丸跡は中央公園となっており、「沼津城本丸跡」の石碑があった。
  武田勝頼が小田原の北条氏に備えて築いたと言われる三枚橋城は、慶長19年(1614年)に一度廃城となった。
  安永6年(1777年)になって水野忠友が三河国大沼から転封となり、三枚橋城跡に沼津城(2万石、後5万石)を再建した。
沼津宿中心街、さんさん通り
  川郭通りを進むとこのさんさん通りに出る。ここからがかつての沼津宿であった。
  今の沼津は人口21万人の市で、周辺はすっかりオフィス街となっている。昔の面影は何も無いが、時折残されている史跡がかつての沼津宿を伝えてくれている。
  なお、元禄1年(1688年)の沼津宿絵図によると、この先本町、下本町を中心に、本陣2、脇本陣4、旅籠78軒、家数1234軒、宿内人別5346人とある。  
三枚城外堀跡
  また、この通りを少し進んだ歩道に、三枚橋城・外堀跡と彫られた石碑と当時の石垣に使われた石が置かれていた。
  さらに、通横町の角には問屋場の説明碑があった。通横町は、南北に走る上土町の通りと本町の通りとを東西に横に通している町の意味で付けられたという。
浅間神社
  沼津宿の中心地を抜けると、右手にあるのが浅間神社である。東海道名所図会にも紹介されている神社である。
  名所図会には、「沼津駅中浅間町に冨士浅間紳祠(しんし)有。例祭9月15日。また社頭に猿田彦神降石あり。また神宝に雌雄の鸚鵡石(おうむ石)あり。大きさ3寸余」と記されている。
  ここで、道中安全祈願をして、また旧街道に戻った。
乗蓮寺
  旧東海道に戻り、永代橋通りで右折し、そのまま真っ直ぐの道が旧東海道であるが、千本松原に寄るため遠回りした。
  その途中の右手にあるのが、この乗蓮寺(すいれんじ)である。京都知恩院の末寺で、天正8年(1580年)の開基。若山牧水の墓があることで知られている。
  若山牧水は大正9年(1920年)に沼津に移り住み、昭和3年にこの地で没したとのこと。
千本松原
  駿河湾に面した千本松公園である。この中を旧東海道とほぼ並行して走っている道が千本松道りである。おそらく、かつての旧東海道はこんな感じであったろうと思われるところである。
  天文年間(1532ー54年)、増誉(ぞうよ)上人がここにやってきた時は、武田勝頼により伐採され、荒涼としていた。地元の人が、塩害を防ぐため松を植えようとしていたが、なかなか根がつかず難儀していた。
  それを見た上人が、1本1本お経を唱えながら、手植えしたところ根がついたとのこと。村の人は感謝し、草庵を建てたのが前述の乗蓮寺である。
駿河湾
  千本松原を横断して、海に出てみた。前方が田子の浦である。付近一帯は千本浜公園となっている。あの遠く霞んで見えるところまで、歩いて行くのかと思うとファイトが沸いてくる所である。
  千本浜公園の中には、「一本植えてはなむあみだ、二本植えてはなむあみだ」と彫られた増誉上人像や若山牧水碑、旧制の沼津中学を出た井上靖文学碑、地元の漢詩人角田竹冷の句碑等がある。
首塚
  千本松通りに戻り、少し進むと右側に首塚がある。明治35年(1902年)、嵐で倒れた大杉の下から多数の骨が露出したため、地元の網元が集め、碑を建てて霊を弔ったもの。
  三枚橋城を築いた武田勝頼と北条氏がここで戦ったとき、勝頼は伏兵の潜伏を避けるために松を残らず切り取ってしまった。
  その時の千本浜の合戦の時の死者の骨で、埋葬されたものだけで105体であった。当初はそれ以上の数であったであろう。全て成人の骨であった由。  
沼津藩領榜示杭
 
 旧東海道の道沿い左側に「六代の松是より南一丁半」の石柱がある。延慶本「平家物語」によれば、ここで平惟盛(これもり)の子六大御前が斬られたという。その首が埋められている由。
  更に進み、左手八幡神社の前に立派な沼津藩領榜示(ぼうじ)杭がある。「従是東」しか残っていないが、この下に「沼津領」と刻まれていたとのこと。
  江戸時代、天領や私領の入り組んだ所では領域の存在をはっきりさせるために、榜示杭が建てられていた。
  この榜示杭を過ぎると、次は原宿への千万松原と並行した長い一本道となる。



ルート
 

沼津駅〜沼津一里塚〜川郭通り
〜沼津宿〜乗蓮寺〜千本原公園
〜千本松原〜首塚〜沼津領榜示石


歩行距離 5.23km


休憩所・トイレ

千本原公園


名 物

あじの干物
(全国生産量の44%を占めてる)

 

箱根笹原新田〜初音ヶ原 目次 次は原宿です

0501/0605
Hitosh


歩行略図

沼津一里塚〜沼津宿〜沼津領榜示石
歩行 青線部
( 5.23km )








街道写真紀行 TOP


悠々人の日本写真紀行

北海道|東北|関東|中部|近畿|中国・四国|九州|沖縄他


Hitosh