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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(26)

11三島宿
Simonagasaka - Hatsunegahara

愛宕坂
  初音ヶ原の錦田一里塚を出ると、旧東海道は現東海道から別れ、右手の細い急な坂道を下ることになる。愛宕坂である。
  1769年に、ここ愛宕坂で、幅2間(3.6m)、長さ1丁18間(109m)にわたり石畳の修理をしたとの記録が残されている。これにより当時の道幅が2間であったことがわかる。
  左手の白い建物は三島東海病院で、かつてはここに坂の謂れとなった愛宕社があったが、今は「愛宕山」と刻んだ碑のみが残されている。 
東海道本線・踏切
  愛宕坂を下ると、JR東海道線の踏み切りとなる。踏み切りを渡った所が箱根路最後の坂道・今井坂で、眼下に三島の町が見渡せるところだ。
     長かった箱根山をやっと越え、いよいよ三島女郎衆で知られた三島宿に到着である。昔の人の気持ちが理解できる気分であった。そして、三島宿への期待が膨らんでくるところでもある。
大場川
  今井坂を下り、大場川にかかる新町橋を渡る。この橋の畔が三島宿の東見附のあったところだ。写真右手に冨士がかすかに見えた。
  三島は、古代には伊豆国府が置かれていた。鎌倉時代以降は三嶋大社が、幕府や武家の手厚い保護を受け、その門前町として大い賑わった町である。
  また江戸時代は、東海道の宿場となり、箱根越えを控えて、江戸に向かう人は、必ずここで泊まったため、さらに賑わいを増した様だ。
三嶋大社前
  本陣2、脇本陣3、旅籠74軒。三島の俗謡、「冨士の白雪 朝日で溶けて 溶けて流れて 三嶋へ落ちて 三島女郎衆の化粧水」で知られたところ。
  後の農兵節「冨士の白雪やノーエ 冨士の白雪やノーエ 冨士のサイサイ 白雪や 朝日で溶ける 溶けて流れてノーエ・・・」と延々と続く通称ノーエ節は富に知られたところ。
  その三島の街に入るとすぐ右手に広大な敷地の三嶋大社がある。言うまでも無く、三島の中心は平安時代初期から続く伊豆国一ノ宮のこの三嶋大社であった。
三嶋大社
  三嶋大社の舞殿(手前)と拝殿である。また江戸時代には朱印地530石を領有していた。
  ここで源頼朝が旗揚げしたことで知られている。境内には「源頼朝旗揚げの碑」がある。治承4年(1180年)8月17日、蛭ヶ小島に流されていた頼朝が戦勝祈願をして、伊豆を知行国としていた平時忠の目代八牧(やまき)判官平兼隆の館に夜討をかけた、その記念碑である。
  境内には頼朝、政子の腰掛石、安達藤九郎盛永警護の跡碑があり、また政子が奉納した梅蒔絵手箱(国宝)や当時の美術品、古文書などが多数展示されている宝物館がある。
天然記念物・キンモクセイ
  三嶋大社境内にある大キンモクセイは、国指定の天然記念物に指定されている。ウスギモクセイの雄木で、国内有数のもの。樹齢1200年、根周り約3m。高さ1mのところで、2大枝幹に分かれている。
  毎年、9月下旬になると、淡黄色の花が咲き、甘い芳香が境内一杯に漂うとか。
たたり石
  この石は、元は三嶋大社前の旧東海道の中央にあり、通行する人の流れを整理する役目を果たしていた「たたり(絡+土偏に乃木、変換不可)石」であった。
  「たたり」は、本来糸のもつれを防ぐ意味である。その後、交通量が増え、邪魔になったため、この石を取り除こうとすると、災いが起き、「祟り(たたり)」とも置き換えて言われるようになったとか。
  大正3年の道路工事のとき、境内のここに移され、今では交通安全の霊石として信仰されている。
若山牧水歌碑
  境内の池の側に若山牧水の歌碑がある。
「のずゑなる 三島のまちの あげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり」
  牧水は九州の宮崎生まれであるが、三島の隣の沼津に住んでいた。8/15の三嶋大社の夏祭りの花火を見て、この歌を詠んだとのこと。
  酒飲みで知られた牧水の有名な
「かんがへて 飲みはじめたる 一合の二合の酒の 夏のゆふぐれ」の方をすぐ思い出してしまう。健康のことを考えて、今夜は少しと決めて飲み始めたが、ついつい杯を重ねてしまう様子が表現されている。見事酒飲みの気持ちを代弁している。  
世古本陣跡
  世古本陣跡の石碑が宝くじ発売中の赤い幟の左下に隠れるように建っている。旧東海道を挟んで反対側には樋口本陣跡碑がある。
  この辺がかつての宿場の中心であったが、今はその面影は全く無い。それでも、記念の石碑があるだけでも救われる。
  郵便局の横には問屋場跡碑も設置されていた。
源兵衛川
  俗謡にもあるように、三島には冨士の雪溶け水が町のいたるところで湧き出しており、その用水堀が全部で22ヶ所もある。
  源兵衛川の源流である湧水群を活かした旧小松宮別邸の回遊式庭園、楽寿園(天然記念物)は名庭園として知られている。また柿田川湧水群の清流と水量も見事な所である。
  水温が冬は気温より暖かいため、町全体に朝霧が立ち込め、かつての旅立ちは幻想的であったとか。残念ながら、今は工業用水や飲料水として使いすぎ、冬は湧水が枯れ、こうした光景は少なくなった。
三石神社・時の鐘
  源兵衛川の畔にある三石神社(写真右奥)である。ここの境内にある時の鐘は、宿場の人々に明け六つ、暮れ六つの時を知らせていた。
  三石神社は、宝暦11年(1761年)の棟札が残っているが、文献によるとそれ以前よりここにあった様だ。源兵衛川の辺に三ツ石と呼ばれる大石があり、そこに社を設けたことから三石神社と呼ばれるようになった。
  なお、三島の「み」は接頭語の御で、「島」は伊豆半島のことである。
千貫樋
  千貫樋(せんがんどい)は伊豆、駿河の国境の境川の上4mのところを横切って架けられている水を通す樋のことである。長さ42.7m、幅1.9m、深さ45cm。
  天文24年(1555年)、今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に引き出物として、水の豊富な小浜池から、長堤を築き、その水を駿河に疎通させたことが始まり。
  この疎水により、駿河の新宿、玉川、伏見、八幡、長澤、柿田等200石(130ha)の田を潤したとのこと。
  樋は木で出来ていたが、大正12年の関東大震災で崩落したため、現在はコンクリート製となっている。  
秋葉神社
  千貫樋の言われは、はっきりしているようでしていない。曰く、架設が巧みで値千貫に値する、この用水が高千貫の田地を潤している、建設費が銭千貫を要したから等々である。なお、東海道名所図会では最後の銭千貫説を採っている。
  堺川に架かる堺川橋の袂にある秋葉神社。この付近が三島宿の西見附があったところだ。
  堺川橋をわたると、次は駿河の国である。今回はJRの三島駅より帰るつもりでいたが、まだ体力も時間もあったので、沼津まで足を伸ばすことにした。



ルート
 

愛宕坂〜今井坂〜大場川・東見附
〜三嶋大社〜本陣跡〜三石神社
〜秋葉神社・西見附〜境川橋


歩行距離 3.29km


休憩所・トイレ

三島大社、三石神社


名 物

三嶋暦、蒲鉾、蜜柑、亀鶴餅、鰻


 

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0412/0603
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歩行略図

愛宕坂〜三嶋大社〜秋葉神社・西見附〜堺川橋
歩行 青線部
( 3.29km )






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