悠々人の日本写真紀行へ移動

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(30)

原〜元吉原宿
Hara − Moto Yosiwara

一本松
  一本松の一里塚を抜けると、右側は大きく開ける。本来なら冨士山が大きく見えるところであるが残念ながら雲の中であった。手前左側に広がるのは浮島ヶ原ある。
  この浮島ヶ原を前景にした愛鷹(あしたか)山と冨士の眺めは街道随一と言われ、広重の書いた浮世絵にもここが描かれている。
  一本松には要石(かなめいし)があると言うので探してみたが分からなかった。後で調べたら、JR東海道線を挟んで海側の道路(冨士清水線)沿いの左側の要石神社にあることがわかった。これでは、見つかるはずが無い。
一本松・三社宮
  さらに少し進むと右手に三社宮がある。創建は慶安3年(1650年)とのこと。
   一本松とは調子良い地名である。実は沼津からずっと千本松原に並行した真っ直ぐな一本道であったので、つい連想してしまった。
  しかし一本松は予想通り、江戸時代初期、ここで新田を開発した時、大きな1本の松があったので「一本松新田」と名付けたという。因みに原の三新田とは、この一本松新田と助兵衛新田、そして植田新田のことである。
  当時の原宿と吉原宿との間は人家が少なく道中が危険であったので、街道の整備、農民の定着とをかねて、幕府の奨励で新田開発が進められたものだ。
  似たような例は、前述の箱根西坂にもあり、そこでも記してあるので興味のある方は読んでみて欲しい。
浅間神社
  桃里(とうり)に入ると右手に浅間神社がある。正しくは愛鷹浅間神社という。神社入口の右側にある大きな石碑は「桃里改称記念碑」である。
  石碑によると、浮島ヶ原のこの地を最初に開墾した鈴木助兵衛(すけべえ)の名前をとって「助兵衛新田」と呼ばれていたが、地名が良くないとのことで明治41年(1908年)に県知事に改称を申請し「鈴木桃里(とうり)」とした。
  なんか、よそ者の私には両方とも似たような気がする。なお、明治時代にはこの辺は桃が沢山栽培されていたとの事。
JR東海道踏切
  植田新田に入ると、旧東海道はJR東海道線と斜めに交差している。共に海岸の細長い砂州の上を並行して走っているので、鋭角に交差する感じである。今までは旧東海道は線路の右側であったが、ここからは左側を歩くことになる。
  道路の左が駿河湾で、右側が浮島ヶ原、そしてその背後が愛鷹山と富士山である。地形的にも古くから見晴らしの良い景勝地であった事がわかる。
八幡宮
  東海道線の踏み切りを渡るとすぐ左手に八幡宮がある。原三新田の一つである植田新田の鎮守であった。
  この神社を過ぎるといよいよ沼津市・原とも別れて富士市・沼田新田、柏原新田に入る。
  次の信号(下の写真)を右折すると東田子の浦駅である。手前のこんもりした森は六王子神社である。
東田子の浦駅口
  神社名の六王子が気になり調べてみると、当初の予想に反した言い伝えがあった。
  沼川と和田川、潤井川とが合流し、深い渕になっているところを三股と呼ばれていた。この淵に龍が住んでいて、毎年のお祭の時、少女を生贄として捧げるしきたりであった。
  そこへ、関東の巫女7人が京都に向かう途中で、この生贄のくじを引き、一番若い「おあじ」が当たってしまった。仲間の6人は国許へ引き返す途中、悲しみの余り、世をはかなんで、ここ浮島ヶ原の冨士沼に身を投げてしまった。  
六王子神社
  柏原新田の人々が6人の亡骸を一箇所に祀ったのがこの六王子神社だといわれている。なお、生贄となった「おあじ」は、この先の田子の浦に面した鈴川町の阿字神社に祀られている。
  以上が表向きの説明であるが、実際はもっと酷い話であった。たまたま通りかかった一人を生贄にして、残りの巫女は村人に犯され、巫女(=処女)として生きる道を閉ざされてしまった。それを儚んで6人の巫女は自殺したという。その罪を悔い、村人が祀ったというのが真相のようだ。
  東海道線の線路を挟んで反対側に山ノ神古墳、庚申塚古墳のあるところである。
間の宿・柏原本陣跡
  柏原新田は東、中そして西柏原新田に分かれており、間の宿・柏原は西柏原新田にあった。丁度原宿と吉原宿の中間にあたるところである。
  写真左手の標識には「間宿 柏原・本陣跡」と記されている。
  柏原は冨士沼の鰻の蒲焼きが有名であった。中間のこの地点で蒲焼の匂いにたまらず、足を止めた旅人が多かったことであろう。
  なお柏原の地名は、平安時代の東海道の柏原駅がこの辺にあったからという。古くからの宿場街であった。この先右手に見える寺が立円寺である。
柏原・望嶽碑
  立円寺(りゅうえんじ)の境内に冨士を模した三角形の望嶽碑(写真中央左)がある。尾張藩の侍医柴田景浩(かげひろ)が、文化5年(1808年)に江戸に下る途中、立円寺に滞在した時に冨士を賞して碑を建てたという。
  石碑の裏側には漢文でその謂れが書いてある。説明板によると、書き下し文で「予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。山は冨士より奇なるはなし。冨士の勝、この間に望むにしくはなし・・・」と。
  望嶽碑の右側にある大きな赤い碇は、インドネシアのゲラテック号(6320t)のものである。昭和54年清水港より救援米を運ぶ途中、台風20号に遭遇し、強風と高浪で船体が直立した状態で柏原海岸に打ち上げられた。その時乗組員の3人が死亡したという。
沼田新田一里塚跡
  沼川の昭和放水路に架かる広沼橋の袂に一里塚跡と書かれた標識があった。日本橋より33番目の一里塚である。
  この標識には、「一里塚跡」と併記して、「増田平四郎の像」とある。
  広沼橋を渡り、昭和放水路の土手を左に入ったところに増田平四郎の像が建っている。感じとしては、一里塚の上に建っているようであった。  
増田平四郎の像
  天保7年(1836年)の大飢饉や度重なる水害で苦しむ農民を救済するため、原宿の増田平四郎は冨士沼の大干拓を計画した。
  当時の韮山代官所に工事許可を12回も願い出て叶わず、勘定奉行へ籠訴(かごそ)すること6度に及び、やっと認められたという。工事に着工したのは26年後の慶応3年(1867年)であった。
  そして沼から海岸まで長さ505m、幅7mの大放水路を完成させたのが明治2年(1869年)の春であった。しかし、その甲斐も無く、その年の高潮で跡形も無く壊されてしまった。  
昭和放水路
  同じ場所に、昭和になって再度放水路が掘削され、平四郎の長年の夢が叶った格好になった。
  なお原から吉原にかけての海岸線は駿河湾から波に運ばれた砂と、冨士山や愛鷹山麓から流れ出た土砂で、川の出口が塞がれ、冨士沼に代表されるような大湿地帯、浮島ヶ原が形成されていた。
  沼川放水路、昭和放水路等はその水を海に流すためのものである。  
米之宮神社と淡島神社
  昭和放水路より約400m、田中町の信号の右側にあるのが、米之宮神社で、その左の赤い鳥居が淡島神社である。
  米之宮神社は田中新田の鎮守である。延宝6年(1678年)、武蔵国鳴子の田中権左衛門という武士が、この地の開墾を行なったので、田中新田という。
  文化13年(1816年)の年貢取立て帳によると、家の数11軒とあり、住人は50人位であったようだ。  
愛鷹神社
  さらにその先右手には愛鷹(あしたか)神社がある。桧(ひのき)新田の神社である。この村が成立したのは江戸時代の初期で、船津新田を開発した三井氏の一族10人程が、ここへ移住してきたとのこと。
  天明年間(1781〜1789年)の村高は18石余とか。家数は12軒、人数は53人とのこと。(参考:当時の10石は今の田畑の広さにすると約1ヘクタール位)
元吉原街並み
  冨士市今井に入ると、目の前に冨士のシンボルとなっている製紙工場の大きな煙突が見えてくる。
  この辺が元吉原で、古くはここが吉原宿であった。現在の今井3町目付近である。元吉原小、元吉原公民館等で、名前が残されている。
  しかし寛永16年(1639年)の高潮で跡形も無く流されてしまったという。その後は約2km先の中吉原に移ったが、延宝8年(1680年)にそこもやられ、現在の新吉原に移ったという。その為、街道はこの先大きく北(右)へカーブしている。 
元吉原街並み 
  原から吉原に掛けての旧街道は長大な砂州の上にあり、左は太平洋、そして右側は浮島ヶ原と呼ばれる大湿地帯であったため、地形的にも水には弱かったようだ。
  旧東海道を歩いていると、そんな場面が他にもある。いずれも高台に街道と宿場が移動している例が多い。基本的には、街道は高台の水害の無い処が選ばれているが、それでも自然の暴威には勝てなかった。
妙法寺・毘沙門天、正面階段
  元吉原の鈴川町にある左手の高台に「鈴川の毘沙門天さん」で知られた妙法寺がある。日本では珍しいラマ教系寺院で、インド、チベット、中国、そして日本風の建物が混在している。
  田子の浦に流れ着いた木造の毘沙門天を本尊としている。旧暦の正月7日から3日間行われるダルマ市が有名だ
  旧中山道沿いの高崎・少林寺、東京調布の深大寺と並んで、日本三大ダルマ市の一つと言われている。 
妙法寺・毘沙門天
  写真手前左は極彩色の中国様式香炉場(写真手前左)となっている。
  境内左手には「毘沙門天王の沓石(くついし)」が、朱色の屋根の下に置かれていた。
  これが、「東海道名所図会」で紹介されている鐙(あぶみ)石であろう。図会には「妙法寺毘沙門堂の前にあり。長さ1間ばかり、幅3尺。形鐙に似たるゆえこの名をよぶ」とある。いつのまにか毘沙門天の沓石となっている。
JR東海道踏切
  この踏切のすぐ左が田子の浦駅である。目の前の大きな煙突は大昭和製紙の工場である。すっかり、この煙突群は富士山と共に富士市のシンボルとなっている。新幹線の車窓から見ると、すぐ判るところである。
  仕事でも、よく来た事がある。製紙工場の他、冨士山の綺麗で豊富な水を利用した医療用具や乳幼児品のメーカーの工場がある。
  この踏切りを渡り、沼川の河合橋を渡る。「河合橋 この川下を三保といふ 生贄の謡に作りし所なり」で知られた謡曲「生贄」の舞台となった所である。  
沼川・河合橋付近
  河合橋を渡り二股を左に折れた所で、後を振り返って撮った写真である。写真右手が沼川となる。   ここで、横浜市中山の高年の夫婦に声を掛けられた。旧東海道の道を教えて欲しいとのこと。この辺は確かに少し分かりにくい。私も自信が無く、地元の人に道を尋ねたところであった。
  2人は日本橋から順番に京都を目指して歩いていると言う。今日は原駅から来て、冨士駅まで行くという。
  私はさらに遠い沼津駅からであったが、調子を合わせて同じく冨士駅まで行くことにする。これが、今回の失敗であった。街道だけで26kmの距離であったが、街道歩きで始めてマメを作り、おまけに筋肉痛となり、帰りの駅の階段で辛い思いをする羽目になってしまった。
左冨士神社前
  東海道では普通は右側に見える富士が、ここでは左側に見えるところだ。生憎の雲で見えなかったが、かすかに山の端が見えるようであった。なお、左冨士は相模の茅ヶ崎でも見ることが出来る(前述)。
  そして、ここには何と左冨士神社(写真左側)がある。これには驚いた。写真右手の影嶋酒店には地酒「左冨士」が売られている。
  なお、この辺が中吉原宿のあったところだ。吉原宿は高潮の影響で段々と海岸から遠ざかり、北へ北へと移動して行った。
左冨士の標識
  左冨士の見える旧街道筋に大きな記念碑と案内板があった。広重の「吉原左冨士浮世絵」が大きく描かれている。
  一緒に歩いていた御夫婦とは、次の新吉原で分かれた。お店で休憩すると言う。そしてまた、冨士駅で偶然再会した。なかなか元気な様子であった。
  この先、旧街道が左にカーブしたところに、和田川に架かる「平家越えの橋」がある。源平合戦(1180年)の一つ、有名な富士川の戦いの舞台となった所である。この橋の右袂に平家越(へいけごえ)碑が建てられている。
平家越え記念碑
  かつては、和田川沿いのここと、現在の滝川との間の広大な湿地帯(冨士沼と言われる大きな沼があった)で、平家物語によるとここに平維盛・忠度を将とする平家方7万人強が陣取っていた。
  そして、冨士沼の水鳥が一斉に飛び立つ羽音を聞いて、敵の来襲かと思い、闘わずして潰走してしまったところである。
 写真右手がその場所であるが、現在は埋め立てられ大きな工場が立ち並んでいる。
  この平家越えの橋を渡ると、いよいよ吉原宿(新吉原)である。



ルート
 

一本松一里塚〜三社宮〜東田子の浦駅
〜間の宿柏原〜沼田新田一里塚
〜昭和放水路〜元吉原
〜毘沙門天・妙法寺〜中吉原
〜平家越橋


歩行距離 8.46km


休憩所・トイレ

毘沙門天・妙法寺
吉原駅(外にトイレあり)


名 物

うなぎ 浮島ヶ原の沼地
山川白酒
葱雑炊

清酒・左冨士


 

千本松原〜原宿〜一本松一里塚へ移動します 目次 新吉原〜本市場〜冨士駅へ移動します

0501/0606
Hitosh


歩行略図

一本松一里塚〜元吉原〜平家越え橋
歩行 青線部
( 8.46km )








街道写真紀行 TOP


悠々人の日本写真紀行

北海道|東北|関東|中部|近畿|中国・四国|九州|沖縄他


Hitosh