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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(31)

14吉原宿〜本市場
 Yosiwara〜HonSizyou

岳南鉄道踏切
  和田川に架かる平家越えの橋を渡ると、いよいよ吉原宿(吉原一丁目)に入る。元吉原、中吉原と比較し、新吉原ともいう。ここが江戸時代の後期の吉原宿のあったところである。
  街の真中を横切っているのは富士急・岳南鉄道である。この鉄道は「吉原」と「岳南江尾」を結んでいる単線の鉄道である。この写真左手に「吉原本町」の駅がある。
身代わり地蔵
  「吉原本町」の駅舎の裏手である。ここに身代わり地蔵と可愛らしい六地蔵があった。
  説明版によると吉原宿の寺町(今の東本通付近)で悪性の眼病が流行った時、このお地蔵さんに願を掛けると治ったとのこと。その時、このお地蔵さんの目にはいっぱいの目やにが付いていたので、身代わり地蔵と呼ぶようになったとか。
  なお岳南鉄道でここから3つ目の駅「比奈」は竹取物語のかぐや姫伝承の地である。竹林一帯は最近「竹採公園」として整備されている。
吉原宿町並
  写真は岳南鉄道の踏切を渡ったところで、吉原二丁目である。この辺がかつての吉原宿の中心で、本陣2、脇本陣3、旅籠60軒もがあったというが何の標識も無かった。
  かつての宿場は賑やかな商店街となっていた。旧東海道はこの先のバスターミナル「吉原中央」の手前を左に曲がる。ここからカタカナのコの字型に、道は曲がっているが、どこにもその案内標識は無かった。前もって調べた持参の地図のみが頼りであった。
木之本神社
   喧騒の商店街を抜けると閑散な住宅街となっている。その一画に木之本神社があった。吉原の他の神社4社と合同で毎年初夏に開かれる「吉原祇園祭」は、江戸時代より250年にわたり続いている。街の人には「おてんのうさん」として親しまれている祭りだ。
  21台の山車の引き回し、宮太鼓の競演、各神社の神輿のあらっぽい担ぎ出し(俗にけんか神輿)は見応えのあるものとのこと。
  隣接して木之元公園があったが、大分日が落ちてきたので休憩せずに通過した。地元の人に旧東海道の道を聞いたが分からなかった。
四軒橋・西木戸跡
  小潤井川に架かる四軒橋である。この袂に富士市教育委員会の標識がありほっとした。余り自信が無かったが、間違っていないことが確認出来、ほっとしたところだ。
  標識には「吉原宿西木戸跡」と書かれていた。吉原宿でおそらく唯一つの標識ではないかと思う。それほど街道歩きの人には不親切な街である。
  現在は日本一の富士山の麓の工業都市、富士市である。旧宿場町の吉原というイメージは忘却したいと思っている様に感じた。
旧東海道家並み
  ここで広い道を横断して、富士市役所の手前の細い道を左に入った。富士市青島町の旧東海道だ。閑静な住宅街となっているところだ。
  もちろん何の標識も無く、面影も無い。すべて手持ちの地図が頼りであった。
  そして、この先の5叉路を、斜め右に入った細い道が旧東海道である。
富安橋
  五叉路を抜け、暫く行くと潤井川(うるいがわ)に掛かる潤井川橋が見えてくる。旧東海道はこの橋では無く、その右手にある「富安橋」(写真)である。
  ここから旧東海道が間の宿本市場に向けずっと伸びている。本来なら、冨士の姿が大きく見えるところであるが、生憎雲の中であった。
  道の両側は田圃となった所の右手に大谷石で囲われた大きな石像があった。菱原の単体道祖神という。
単体道祖神
  普通は仲睦まじい男女一対の神(双体道祖神)であるが、単体がミソとなっている。
  旧吉原地域では、全部で188基の道祖神があり、その内単体道祖神が86基もあるという。この辺では、決して珍しくは無いわけである。その殆どが吉原宿の伊豆側に集中しており、写真のような僧行形をしているとのことであった。
  富士市全体で見ると、他の地域では、当然双体道祖神が多いとのことであった(「富士市博物館だより」No.40より)。
間の宿・本市場
  富士市本市場に入り、県の総合庁舎の前に「旧東海道間宿本市場」の石碑と説明標識あった。吉原宿と次の蒲原宿の中間の休憩所で多くの茶屋が立ち並んでいたところだ。
  この茶屋の名物は白酒、葱雑炊、肥後ずいきであったとのこと。広重の絵では白酒売りの茶屋で憩う旅人が、富士を背景に描かれているところだ。
  なお、性具である肥後ずいきは、勿論肥後が本場ではあったが、原料の蓮芋が駿河産の方が良質と言う事で、江戸後期には本場ものを凌ぐほどになったと言う。
鶴芝の碑
  この鶴芝の碑は、文政三年(1820年)、間の宿本市場の鶴の茶屋に建てられたもの。当時、ここからの富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞って居るように見えたので、京都の画家蘆州(ろしゅう)が鶴を書き、これに江戸の学者亀田鵬斉(ほうさい)が詩を添え、石碑としたとのこと。
  説明板によると、富士市に残された数少ない貴重な江戸時代の文化財とのこと。旧東海道を歩いていて、たしかに富士市ほど旧東海道に関する史跡の少ないところも珍しかった。
旧東海道分断地
  左はもう一ついけない現場写真である。旧東海道が新しく出来た道で分断されている。そして、センターラインに、ご丁寧にも生垣が作られ「迂回してください」と書かれている。その下に、「旧東海道跡地」の石碑である。
  遠回りして信号のあるところを横断しろと言う趣旨らしい。これほど徹底したところも珍しかった。信号を付けるほどの交通量が無いからとの理由であろうが、せめて横断歩道ぐらいつけて欲しい感じがした。
富士町旧東海道
  富士由比線(県道)を渡ると、目の前に大きな製紙工場(王子製紙)の煙突が見えてきた。やっと富士駅が近くなってきた感じである。
  冨士市には製紙工場が多い。工場は120を超えていると言う。
  大正中期から昭和初期に掛けて、宿場町であった吉原を中心に、地元資本の中小製紙工場が急増し、全国有数の紙の産地に成長したとのこと。豊富な水を利用し、和紙生産の伝統を活かしたたものである。  
本市場一里塚碑
  そしてここ富士駅が開業すると、駅周辺は商工業の中心となった。特に戦後は、自動車、電機、化学の大企業が進出し、すっかり工業都市となっている。
   製紙工場の裏手、 冨士税務署の手前の堀の側に本市場一里塚碑があった。江戸日本橋より35番目の一里塚である。 
   ここで足のマメがつぶれ、おまけに足のふくらはぎや大腿部が痛くなってきた。旧街道歩きをしていて、こんなことは始めてであった。  
富士本町通り
  一里塚跡を過ぎると旧東海道は富士本町通りと交差する。立派な商店街である。この道を左に折れ真っ直ぐ行くとJR冨士駅である。
  富士市を歩いて不思議に思ったのは、JR吉原駅と岳南鉄道の吉原本町、そしてJRの富士駅の関係である。調べて見ると、もともとは別の町で、1966年に吉原市とここ富士市とそれに鷹岡町が合併して富士市となった。
  なお、新幹線の新富士駅はこことは違い、さらに南へ1.8km離れたところにある。  
JR富士駅
  ここで、横浜の高年の夫婦と再会した。私より元気そうであった。ここで食事をしていくと言う。
  このご夫婦は原町から歩いているが、私は少し欲張って沼津からであった。その差が出たようであった。痛い足を引きずるようにして、JR富士駅に辿り着いたのは夕方の5時半であった。
  冨士駅はJR身延線の乗換駅でもある。今回はここで、徒歩の旅を中断した。そして、各駅列車を乗り継いで、自宅に戻った。駅の階段の上り下りが辛かった。



ルート
 

吉原本町〜吉原宿
〜四軒橋・吉原宿西木戸
〜間宿本市場〜本市場一里塚
〜JR冨士駅


歩行距離 5.40km


休憩所・トイレ

吉原本町駅
吉原・木の元公園


名 物

白酒、葱雑炊、肥後ずいき


 

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歩行略図

平家越橋〜吉原宿〜本市場駅〜冨士駅
歩行 青線部
( 5.40km )






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