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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(32)

本市場〜間の宿・岩淵
 FujiKawa 〜 Iwabuchi

JR冨士駅前通り
  横浜発6:13のJR東海道線に乗り、途中沼津で乗り換えて、冨士駅に着いたのが8:34であった。日本橋を出発してから、10回目の旧東海道五十三次のんびり徒歩の旅のスタートである。
  10回目になると、さすがに徒歩の旅も慣れてきた感じである。一日の自分の行程が予め計算できるようになったきた。今回の徒歩予定はさった峠を超えて興津までとした。
  駅前の冨士本町通りに出ると、目の前に大きく富士山が聳えていた。前回の時は冨士山は雲の中であったが、今回は姿を現してくれた。やはり、このコースは、冨士山が見えないと寂しい。
本市場・札の辻跡
  駅前より約500mのところで、旧東海道と交差する。旧東海道に復帰して、少し行った所に間の宿・本市場の札の辻跡がある。現在の平垣町公会堂の横である。
  御影石の台座に札の辻の謂れが書かれていた。説明によると、この辺は岩本山実相寺(じっそうじ)の東端であった。
  実相寺は久安元年(1145年)、鳥羽法皇勅願の天台宗の寺(現在は日蓮宗)で、境内は一里四方もあった。西に比叡山、東に実相寺とまで言われた名刹で、四九院、五百の僧坊があり、常に五百人以上の学僧がここで修行していたとのこと。
  なお、実相寺は、ここから南西の方向1里の富士川の近くに今でもある。
JR身延線柚木駅
  少し歩くと、目の前にJR身延線の柚木(ゆのき)駅がある。そのガードを潜って右を見たところで、冨士山が大きく目に飛び込んできた。
  なお、JR身延線は冨士駅と甲府を結ぶ線で、全長88.4kmのローカル線であるが、富士山の西麓を冨士川に沿って走っているため窓からの眺めが特に素晴らしい。
  冨士川を渡ったところの光栄寺の階段の下に、旧東海道は左、そして右、身延道と書かれた古い道標が残されている。JR身延線はこの身延道(現冨士川道)に沿った鉄道である。  
かりがね(雁)堤、護所神社方面
  身延線のガードを潜って最初の五差路である坂下信号(左写真)を右斜めに入ると、すぐ護所神社、そしてその背後にかりがね堤がある。旧東海道は、このかりがね堤の手前となっている。左の道は冨士川に掛かる冨士川橋方面である。
  雁(かりがね)堤は、江戸時代初期に作られたものだ。人柱伝説で知られた堤で、冨士川に沿って屈曲しながら2.7kmに渡り作られたものだ。形が雁の群れが空を飛んでいるときのように「く」の字型になっていたので、かりがね堤と呼ばれるようになったとのこと。
護所神社前よりの冨士山
  雁堤は、当時の代官の古郡氏が親子3代(53年)に渡り、何度も大雨で決壊したが、苦労の末にやっと完成させた堤である。
  しかし、それもまた大雨で決壊してしまうことを恐れ、冨士川を渡る1000人目の旅人を人柱にすることなった。
  1000人目の旅人は巡礼の老夫婦であった。話を聞き、お役に立てるならと引き受け、生きながら埋められることになった。その巡礼(夫の方)の鳴らす微かな鐘の音が、地中から21日もの間、聞こえて来たという。    
水神の森・水神社 
  村人は、人柱となった巡礼と、氾濫や築堤中の犠牲者を祀り、ここに護所神社を作った。
  毎年10月に行われる「かりがね祭」は、火のついた松明(たいまつ)を一斉に、蜂の巣と呼ばれる籠に投げ入れる豪壮なものとか。
  さらに堤沿い進むと、現在の冨士川の土手に出る。その富士川に架かる冨士川橋の袂に水神の森・水神社が祀ってある。
  江戸時代の東海道名所図会にも紹介されている水神社だ。前述のかりがね堤は、この水神の森から岩本山実相寺に掛けて築かれた堤である。  
冨士川渡船場跡
  水神の森の一画に冨士川渡船場の跡碑がある。江戸時代、冨士川は当時の岩本村と岩淵村の間を船で渡った。
  用いられた船は、定渡船、高瀬船、助役船があった。通常の定渡船は、客を30人と牛馬4匹を乗せ、船頭5人で川を渡った。
  渡船の業務は当初、岩淵村で担当していたが、交通量の増加に伴い、その3分の1を岩本村でも担うようになった。
冨士川橋
  冨士川に掛かる緑色に塗られた冨士川橋である。橋の袂に水神の森と、渡船場跡の道標が出来ている。
  この橋は大正13年に掛けられたもので、幅7.3m、全長399mである。構造はプラットトラス(Pratt Truss)と呼ばれるものだ。
  なお、トラスとは三角形に組んだ部材を基本単位とした骨組み構造のことである。プラトは平面トラスの一種である。
  右側に歩道が付けられているのはありがたかった。この歩道からの眺めは最高であった。
冨士川橋より
  冨士川橋の歩道より撮影した冨士だ。名所図会には「四海無双の名山にして、駿河・甲斐・相模三国に蟠(わだかま)るといえども、駿州冨士郡(ふじのこおり)にあれば冨士山(ふじのやま)と号し、駿河の冨士ともいう」、「峰削り成せるが如く。直(ただ)に聳えて天に属(つづ)く。その高さ測るべからず」と紹介されている。
  標高3776mの文字通り、日本一の山である。因みに2位は北岳(3193m)、3位は奥穂高岳(3190m)となっている。
  冨士山には一度登った事があるが、頂上からの見晴らしは、もう見事なものであった。  
冨士川
  橋の上より広角レンズで撮った写真である。この辺をかつては船で渡ったところである。今は上流にダムが出来ているため、水量が少ないが当時はもっと多かった。そして海道一の急流といわれていた川である。
  名所図会には「我が国に名を得たる大河はあまたあれど、ことに冨士川は海道一の急流なり。舟に乗りて渡るに、渡し守 ちからを出でだし 棹をさし、櫓を押し出す時、岸より見るものは、あわやと危うく思い、船中の人は目まい、魂の消ゆる心地ぞしける」と記されている。  
冨士川河岸段丘
  冨士川は、南アルプスの甲斐駒ヶ岳(2966m)の西麓を源流とする釜無川と、笛吹川が合流して、甲府盆地の水を集めて富士市で駿河湾に流れ込む川である。
  日本三大急流(最上川、球磨川)の一つにも数えられている。
  左の写真は橋の上より対岸の岩淵方面を見たものである。見事な河岸段丘が連なっているところだ。
  その河岸段丘への急な坂を上り、左側が旧東海道である。川に沿って右に行く道が身延道である。
間の宿・岩淵家並み
  冨士川を渡ると現冨士川町となる。河岸段丘を登ったところ(標高43m)が、かつての間(あい)の宿岩淵のあったところだ。今でも当時の雰囲気が感じられる。
  なお、JR冨士川駅は元は岩淵駅と言った。冨士川町が出来ると同時に変更したとのこと。
  岩淵は冨士川舟運(終点は甲州鰍沢(かじかざわ))の発着所としても、江戸時代より栄えてきた町である。
  この旧東海道は南に向かっているので、正に背負い冨士での街道歩きとなった。実に気持ちの良い道である。
岩淵宿本陣跡
  右手に岩淵宿小休(こやすみ)本陣がそっくり残されている。国の有形文化財に指定されている。
  渡船名主の常盤弥兵衛が務めていたもので、建物は安政元年(1854年)の大地震の後に建て直されたものという。
  主家の総建坪75.38坪、切り妻作り、桟瓦葺。
また、門を入って右側には槙(まき)の古木(根回り6m、樹高10m)があり、冨士川町の「町の木」に指定されている。
本陣内部
  本陣の中を見ることが出来る。写真の庭に面した奥の部屋が上段の間で、周囲の部屋より10cmほど高くなっている。
  部屋には、床の間と違い棚があり、大名や賓客の休息の間であった。
  間の宿(立場)は、前にも述べたが、宿泊することは許されていなかった。あくまでも休憩用のものである。
岩淵一里塚(西側)
  冨士を背にして、爽やかな高台の旧東海道を歩いていると、路傍にたくさんの常夜灯があるのに気付く。
  常夜灯には総て秋葉山と書いてある。明かりを灯すと共に秋葉信仰の現われで、火伏せ(火難よけ)の願いが込められている。
  暫く行くと、両側に大きな一里塚の木が見えてくる。岩淵一里塚跡である。遠くからも、良く見え、今でも良い目印になっている。
岩淵一里塚(東側)
  街道の両側に、昔のままの形で、今でも残されているのは珍しい。とくに西側(写真上)の榎の木は見事であった。
  なお東側の榎は、昭和42年に虫害で枯死してしまったため、昭和45年に植え直したものである。
  岩淵の一里塚は、日本橋から37里目(約148km)にあたるものだ。良く、ここまで歩いてきたものだと思った。
  ここは、かつては岩淵村と次の中之郷村の村境でもあった。
中之郷
  河岸段丘上の岩淵よりさらに坂を登ったところである。実は、ここまでの道が分かりにくかった。JR冨士川駅が近いので、道なりに進むと駅の方に向かってしまう。住宅地で見通しが悪いうえに、標識も無かった。
  地元の小母さんに聞いたが分からなかった。頼りは、持参の地図と磁石のみであった。
  途中で、右に曲がり中部電力事務所の前の道が旧東海道である。その坂を登ると、目の前に東名高速道路があった。  
中之郷・東名高速ガード
  上の写真はその手前で後を振り返ったものである。ここに中之郷の標識と、左吉原宿一里三十町、右蒲原宿二十三町の道標があり、道が間違っていないことが解り、ほっとしたところであった。
  左の写真は東名高速のガードを潜った正面である。目の前に、三田講の建てた野田山不動明王と彫られた大きな石碑がある。旧東海道はここを左折である。
   ここで、右手の小高い山の階段を登ったところにある金鶴神社、山之神神社の境内で休憩した。
東海道新幹線ガード
  休憩の後、谷川である谷津沢川に架かる小池橋を渡り、暫く進むと目の前に、今度は新幹線のガードがあった。
  新幹線は、この右で蒲原トンネルとなっている。ここは、その入口付近である。
  右手には金丸山(532m)、大丸山(572m)等の山が連なっているところである。
  このガードを潜ると、次の蒲原宿はもうすぐである。



ルート
 

JR冨士駅〜本市場札の辻
〜JR柚木駅〜雁堤〜冨士川橋
〜間の宿・岩淵〜岩淵一里塚
〜中之郷〜新幹線ガード下


歩行距離 6.55km


休憩所・トイレ
JR冨士駅


名 物
蜜柑、キウイ、シイタケ、茶


 

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Hitosh


歩行略図

JR冨士駅〜冨士川橋〜間の宿・岩淵〜新幹線ガード下
歩行 青線部
( 6.55km )





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