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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(33)

15蒲原宿
 FujiKawa 〜 Kanbara

富士川町・聳岳雄飛の碑と常夜灯
  新幹線の下を潜ると、左手に古い常夜灯と並んで「聳岳雄飛」と書かれた碑がある。昭和45年の区画整理事業を記念して建てられたものだ。
  右前方の民家の前に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)之跡」碑のあるところだ。
  旧東海道には明治天皇の足跡を残す碑が実に多い。この駐輦碑もその一つである。輦(れん)とは、天子用の人が引く車のことである。明治11年の巡幸のとき、ここで車を停め、休憩されたところだ。   
東名高速道路
  さらに進むと、この東名高速道路沿いとなる。この東名高速道路の上に掛かった、陸橋(新坂袴橋)を渡ると、蒲原(かんばら)町に入る。
  写真は、陸橋より富士市方面を見たものだ。真正面の富士に雲が掛かっていた。ここから蒲原宿までは、駿河湾に向かって坂(新坂)を一気に下っていく感じとなる。
  かつては「七難坂」を下って蒲原に入ったが、天保14年(1843年)の富士川の氾濫で道が流され、この新坂が作られたとのことであった。
光蓮寺
  やがて、坂の途中に立派な寺院が見えてくる。海前院光蓮寺である。寺の入口の前には、広重の有名な浮世絵「蒲原雪之絵」の案内板が立っていた。
  光蓮寺は元和六年(1620年)の開基とのこと。本堂の瓦葺が見事であった。綺麗な棟線の屋根で、軒巴(のきどもえ、軒丸瓦)、鳥休みには寺紋の入った立派なものである。
  寺には浄瑠璃姫の位牌があるという。浄瑠璃姫の墓はJR東海道本線を挟んで反対側(東側)の蒲原中学校の前に残されている。  
  浄瑠璃姫とは、三河国矢矧の長者の娘で、義経(牛若丸)が奥州下りの途中、情交があったと伝えられている。その姫が、義経の後を追い、ここまできて力尽きて死んだという。

一里塚跡
  新坂を下り、県道396号(富士油井線)の一つ手前の細い道を右折する。この道が旧東海道である。
  右折するとすぐ左手に蒲原の一里塚跡がある。日本橋より38番目(約152km)の一里塚だ。
北条新三郎の墓
  さらに右手に、蒲原城主北条新三郎氏信の墓碑がある。永禄十二年(1569年)武田軍に攻められ自刃したとのこと。
  蒲原城は、この蒲原宿を見下ろす道城山(標高230m)の上に建つ要衝の城であったが、城兵1000人のところに、北条方のさった峠の砦を落とした武田軍(18000人)は、その勢いで蒲原に攻め込んできた。
  良く守ったが、大軍で勢いのある武田軍に敗れてしまった。なお、敵の武田軍の総大将は、信玄の4男勝頼であった。また北条新三郎は、北条早雲の3男幻庵の子である。  
諏訪神社
  街道右手に諏訪神社がある。保元年間(1156−1159年)の創建とのこと。富士川の水害から宿場を護るために建てられたとのこと。鳥居に大きな房の付いた注蓮縄が珍しい。
  保元というと「保元の乱」を思い出す。崇徳上皇、源為義と後白河天皇、平清盛・源義友が戦い、敗れた崇徳上皇が讃岐に流された戦いである。
  その頃より、蒲原は宿場として機能していたようだ。なお、蒲原は東より諏訪町、八幡町、天王町とそれぞれの氏神の町名が付いていたが、今は蒲原1、2丁目となっている。
15蒲原宿・東木戸
  諏訪神社の下に東木戸跡の標識と、「宿内安全」と彫られた古い常夜灯があった。常夜灯は文政13年(1831年)に作られたものという。
  ややS字状になった道(ゆるい枡形)を進むと、旧東海道で15番目の宿場・蒲原宿である。ここが、その入口であった。
  東海道では、この東木戸と京都側の西木戸の間を「木戸内」と呼んでいた。蒲原の木戸内の距離は約1kmである。
日軽第2発電所
  東木戸に入ると右手に巨大な4本の導水管がある。現みずほグループの日本軽金属鰍フ第2発電所のものだ。坂の上には圧水場があり、そこから水を勢い良く落として発電させている。
  現在では、日本で唯一のアルミニウム製錬電解工場である。アルミの精錬には大量の電力を食うが、それを自家調達しているのであるからたいしたものだ。
  もちろん、ここだけの電力では不足で、富士川水系の静岡県及び山梨県内に合計6カ所の水力発電所を保有している。
  東海道本線を挟んで海側に、日本軽金属の蒲原製作所とグループ技術センターが設立されている。  
木屋の土蔵(三階文庫)
  街道左手に奇妙な形をした珍しい三階建ての土蔵(写真左手)がある。渡邊家土蔵で三階文庫と呼ばれ、町指定の文化財となっている。
  渡邊家は代々問場を務めてきた旧家で、材木を商っていたことから「木屋」の屋号で呼ばれていた。
  この土蔵は四隅の柱が、上に行くにつれ、少しずつ狭まる「四方具」(四方転び)という耐震性に優れた方法で建築されている。棟札から、天保9年(1838年)に建てられたもので、町内最古の建物とのこと。
  土蔵の中には、今でも江戸時代の資料が保管されている由。
蒲原宿町並
  蒲原宿は本陣1、脇本陣1、旅籠45軒の宿場で、総家数は488軒であった。
  昔ながらの面影を残している町並みで、由緒ある建造物には一つ一つ丁寧な説明板が立ててあるのには感心した。古い町並みを大事にしている町である。
  蒲原には「カンバラ」を逆にして、「バラカン気質」という言い方があるそうだ。気が荒く、喧嘩早いが裏表が無く、明るい性格を言うようだが、どうも古事付け臭い。
「蒲原夜之雪」記念碑
  蒲原宿のほぼ中央に広重の浮世絵「蒲原夜之雪」記念碑があった。
  説明板によると、歌川広重が天保3年(1832年)4月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京に上った折、この地で描いたものとある。
  昭和35年、この絵が記念切手(国際文通週間)に採用されたのを記念して、この絵が描かれたと思われるこの場所に記念碑が建てられたという。
  しかし、どうも場所的にピンと来なかった。どちらかと言うと、前述の光蓮寺の辺りが、相応しい感じであった。
蒲原宿本陣跡
  左手に蒲原宿の本陣跡がある。代々平岡家が本陣を務め、邸内には今でも、大名が駕籠を下ろしたと言われる「お駕籠石」が残されているという。
  当初、蒲原には本陣が多芸(たき)家(東本陣)と、この平岡家(西本陣)の2家があったが、宝暦年間(1751〜1763年)に多芸家が絶え、平岡家のみが幕末まで本陣を務めたという。
  現在の建物は、大正になって立て直したものとのことであった。
手作りガラスと総檜の家
  この建物は明治42年に建てられた磯部家である。寺院建築に多く用いられている総欅(けやき)つくりの家で、柱や梁(はり)から一枚板の戸袋に至るまで欅で作られている。
  また、2階の窓ガラスは、波打つような面となっている手作りガラスを使用している。日本に於ける板ガラスの生産は、明治40年からであるから、当時の最先端の建築素材を使って建てられたものであった。
御殿道跡
  細い路地の入口に「御殿道跡」の説明板が立っている(写真右側)。かつてこの辺りに「蒲原御殿」があったという。
  信長が武田を攻めての帰途、ここを通るとき、家康が信長を接待するため御殿を建てたのが始まりという。その後、秀忠、家光が東海道を往来するたびに拡張、整備されて規模も大きくなったとのこと。
  今も背後の山を御殿山、そしてそこから下る道を御殿道と呼んでいる。
旧五十嵐歯科医院・洋館
  大正時代の洋館で、国登録有形文化財となっている。旧五十嵐歯科医院の建物で、大正3年に五十嵐準氏が町屋を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれるものである。
  外観は洋風で、内部は和風という。当時の洋風建築としては珍しく、ガラス窓が多く使われた開放的な建物となっている。
蔀戸のある志田家
  蔀戸(しとみど)のある志田家の住宅主屋等が国登録文化財となっている。安政元年(1854年)に建てられたものだ。
  志田家は山六(やまろく)の屋号を持つ味噌や醤油を醸造する商家であった。
  蔀戸とは、日光や風雨を遮る戸のことで、上下2枚に分かれており、上半分を長押(なげし)から吊り、下半分は懸金(かけがね)で柱に打った寄せにとめ、全部開放するときは、下の戸は取り外せるようになっている。
  昼は上に吊り上げて目隠しにし、夜は下ろして戸締りの役を果たしていた。
蒲原宿西木戸
  枡形となっている道を通ると、蒲原宿の西木戸となる。ここからは旧東海道は現在の県道396号線と重なっている。
  江戸期の里謡に「蒲原に過ぎたるもの三つある 出入り、厄病、寺が八箇所」とある。今も家数の割には寺の多い、静かな町であった。

  次の東海道16番目の宿場・由比宿まで約4km(1里)の道程である。



ルート
 

新幹線ガード下〜新坂〜諏訪神社
〜東木戸〜15蒲原宿〜本陣跡〜西木戸


歩行距離 2.78km


休憩所・トイレ
無し


名 物
いるかのすまし(蒲原ガム)
削り節


 

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0501/0701
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歩行略図

新幹線ガード下〜新坂〜蒲原宿西木戸
歩行 青線部
( 2.78km )








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