悠々人の日本写真紀行

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(10)

神奈川台〜4保土ヶ谷宿
Kanagawadai - Hodogaya


メ モ

参 考
1里=36丁(町)=3.93km
1丁(町)=60間=109m
1間=6尺=1.818m
1尺=30.3cm

日本橋から京都三条大橋 126里6丁1間=492km
1日で10里(39.3km)、全行程 12日から15日が標準

足弱とされた女性連れでも1日6里(23.6km)は歩いたとのこと

軽井沢公園・勘行寺
  神奈川台の陸橋上台橋を渡ると、すぐ右手にあるのが沢渡中央公園。
  横浜の夏のイベント、ヨコハマカーニバル・ハマこい踊りのスタート地点としても御馴染みの公園である。トイレもあり、休憩するのに最適の公園である。
  さらに300m、緩い坂を下った途中右手にあるのがこの軽井沢公園である。軽井沢というと、長野県の避暑地の方を思い出すが、こちらは江戸時代からの地名である。本来、軽井沢とは涸沢や峠の麓(ふもと)を意味している言葉から来ている。  
旧東海道南軽井沢
  軽井沢公園の裏手にある勘行(かんぎょう)寺には、「天然理心流元祖近藤先生之墓(近藤内蔵助長裕)」がある。ご存知、新撰組隊長の近藤勇は、この流派の4代目である。
  さらに旧東海道の緩い坂を下ると、広い道路である新横浜通りと交差する。
  ここで、大失態をしてしまった。南軽井沢公園よりの地下道を潜って、そのまま進んでしまったら、三沢公園の下の鎌谷町まで行ってしまった。
浅間神社
  途中おかしい、おかしいと思いながらではあったが、道幅や佇まいが何となく旧街道と言う感じであった。地図を出し確認すると、片道1000mも余計に歩いてしまった。往復30分の道草であった。
  もとの新横浜通りまで戻り、地図で確認して、再スタートとなったのがこの浅間(せんげん)神社下の交差点である。
  浅間神社は景色の良い高台にある。登り口左手の崖に冨士の裾野に通じているという横穴「冨士の人穴」で知られた所だ。
芝生追分
  さらに10分ほど歩き、目の前に松原商店街のアーチの手前にあるのが、この道標である。
  芝生追分(しぼうおいわけ)と書いてある。東海道と八王子道の分岐点であった。
  追分とは、道の分岐点を意味している。左手が東海道で、右手が八王子道であった。
松原商店街
  松原商店街の人込みは凄かった。今でもこんな活発な商店街があるには驚いた。町名は、この辺が海沿いの松並木であったからとのこと。
  この辺は、交通は不便であるが、品物が豊富で、しかも安いということで人が集まり、活況を呈している。横浜のアメ横とも言われている由。
  この商店街を通る道が旧東海道である。人の間を抜けるようにして、通過した。
保土ヶ谷宿江戸方見附
  国道16号線を渡ると直ぐの所に、江戸方見附跡(現在の天王町1丁目11付近)がある。ここからが保土ヶ谷宿である。
  江戸方見附は、土盛りした土塁の上に竹と木で矢来(やらい)を組んだ構造であった。その構造から土居とも呼ばれていた。
  外川(とがわ)神社付近の京都側の上方見附までは、家屋敷が街道に沿って立ち並び、宿内(しゅくうち)と呼ばれていた。この間の距離は19町((約2km)もあったという。
橘樹(たちばな)神社
  右手にあるのがこの橘樹神社である。元の武蔵野国橘樹(たちばな)郡の名残が伺える。
  文治2年(800年前)の創建と伝えられている。ここの狛犬は嘉永5年(1852年)建てられたもの。さらに本堂後ろの小堂に不動明王の前に、3体の庚申塔青面金剛があり、中央の金剛は寛文9年(1669年)のものとある。
  青面金剛は、本来は「流行病を流行らせる悪鬼であったが、後に改心して病魔を追い払う善になったといわれている。以前は祇園社、牛頭天王社、天王宮と呼ばれていた。この天王をとって現在の天王町としたとのこと。 
旧帷子(かたびら)橋跡
  帷子川に架かる現在の帷子橋を渡ると、すぐ目の前に相鉄線の天王町駅がある。この駅を抜けると、旧帷子橋跡がある。旧帷子橋は広重の五十三次保土ヶ谷にも描かれている橋である。
  帷子川はここ(左の写真)を流れていたが、川の改修工事と相鉄線の高架化により昭和30年に流路が100m程東側に変えられている。
遍照寺
  遍照寺には江戸の狂歌師朱楽菅江(あけらかんこう)碑と供養塔がある。ここの本尊である薬師如来像は、鎌倉時代のもので市の指定有形文化財に指定されている。
  この寺の入口付近は、慶安元年(1648年)、新しい保土ヶ谷宿が作られた時に、今井川はここで街道を横切っており、「中橋」が架けられていた。
  その説明板が旧中橋跡として建てられている。流路がここで直角に曲がっていたため、大雨が降るたびに下流側が浸水していたのを、幕末になり人馬の往来が急増したこともあり、現在の川筋に改修されたとのこと。
  その時の大量の残土が江戸に船で運ばれ、品川台場の埋め立てに使われたとのこと。
保土ヶ谷駅前
  左手奥がJR保土ヶ谷駅である。旧東海道はこの右手を行く。
  保土ヶ谷は、もと橘樹郡保土ヶ谷。帷子川の支流今井川が浸食して東西に細長い谷を作っているところに発達した町である。地名の由来として、こうしたくぼんだところの地形をホド、ホト(陰)と呼ばれていたことによるとのこと。
問屋場跡
  問屋場(といやば)と高札場(こうさつば)、助郷(すけごう)会所がこの付近にあったと保土ヶ谷区役所の案内板にある。
  問屋場とは、人馬の継立(つぎたて)等の事務を行った役所である。助郷とは、宿駅常備の天馬、人足が不足した場合に、応援の人馬を負担する近隣の郷村のことである。
  幕末になると、交通が激しくなり、常備のものでは不足したため、大変な負担となったようだ。
東海道踏切
  旧東海道はここでJR東海道線の踏切を渡る。
  この踏み切りの手前左に金沢横町道標がある。4つの道標が並んでおり、一つは鎌倉へ抜ける金沢往還を示す「かなさわ・かまくら道」とある。他は、円海山、富岡山芋大明神、杉田梅林への道標となっている。
  保土ヶ谷宿は、東海道から三崎、浦賀方面や、金沢、鎌倉、江の島への分岐点としても大層賑わったという。  
保土ヶ谷宿軽部本陣
  JR東海道線の踏切を渡ると、今度は東海道(国道1号線)と合流する。
  その合流点にあるのがこの保土ヶ谷宿の軽部本陣跡である。当時の門が残されている。
  右手の道路は現東海道(国道1号)である。本陣は小田原北条氏家臣、刈部豊前守(かるべぶぜんのかみ)の子孫が代々務めていた。
  同家は、問屋、名主を兼ね、保土ヶ谷宿では最も有力な家であった。
脇本陣(水屋)跡
  明治3年に、今の軽部姓に改称したとのこと。それで軽部本陣跡となっているが、もともとは刈部であった。
  脇本陣は藤屋、水屋、大金子屋の3軒があった。写真は脇本陣の一つ水屋跡である。
  本陣の大名の宿泊代は心付で、決まった額は無かった。藩の財政が苦しくなると、心付が少なくなり、また本陣は格式ばかり高く、その上一般の客を泊めることが出来なかった為、どこも経済的に厳しかったのが現実の様だ。
本金子屋旅籠跡
  その点、脇本陣は融通が効き、通常は普通の旅籠として営業していた。
  左の写真は旅籠屋本金子屋の跡である。説明版に天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模は建坪79坪、間口7間(約12m)、奥行き11間半(20.9m)、そして室数は13とある。
  保土ヶ谷宿は本陣1、脇本陣3のほか、旅籠屋が元禄年間(1688〜1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあった。
  客の増加と共に旅籠の数も大幅に増えてきている。
今井川、一里塚跡
  外川神社の下、江戸から8番目の一里塚のあった所である。その痕跡は無く、ただ説明版があるだけである。そして、この付近が、保土ヶ谷宿の京方見附のあったところである。
  ここで、再び国道1号線と交わるが、旧東海道はすぐ右手の坂道に入る。
  道標もあり分かりやすいが、旧東海道最初の難所と言われた権太(ごんた)坂への道である。



ルート
 
神奈川台・上台橋〜軽井沢公園
〜浅間神社〜芝生追別〜松原商店街
〜江戸見附〜橘樹神社
〜帷子橋〜遍照寺〜保土ヶ谷駅前
〜軽部本陣跡〜本金子屋旅籠
〜今井川一里塚跡、京方見附


歩行距離 4.2km



休憩所・トイレ

沢渡中央公園
浅間下公園
神明下公園


名 物

宿場そば
保土ヶ谷駅前の桑名屋
100年の歴史を持つという

道中稲荷
保土ヶ谷商店街が最近作ったもの
稲荷寿司に干瓢を巻きつけたもの


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0411/0502
Hitosh


歩行略図

神奈川台・上台橋〜保土ヶ谷宿京方見附
歩行 青線部
( 4.2km )







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