悠々人の日本写真紀行

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(12)

品濃坂〜5戸塚宿
Sinanozaka−Totsuka


メ モ

大名行列
(参勤交替)

1万石で50人、5万石で170人、十万石で250人、二十万石以上が400人規模
例外として加賀百万石の前田家は2500人、薩摩72万石の島津家で1240人

参勤交代の行列が宿泊する時は、料理人を同行し、
必要な食器、調理器具や米等もすべて持参であった
もっとも、食事は質素で、大名でも、朝は焼き味噌と豆腐
昼と夜は1汁2菜が普通であった

また身の回りの世話も側近が総て行うので、
本陣側は、その場所を提供するだけであった
従って、本陣の使用人は、下男1人、手代1人に下女2、3人に過ぎなかった

しかし、格式を要求されたため、建物等の維持が大変で、相当な負担であった
さらに、大名の宿泊料は木銭(きせん=薪代程度)と、僅かな心付けで
時には扇子1本ということもあった様だ
従って、どこの本陣も経営的には大赤字であった

旧東海道・川上川
  JR東戸塚駅で下車し、駅前の道を右に行き、最初の交差点(品濃町)を左折すると、約300mで丁字路に突き当たる。ここが旧東海道で、品濃坂を下り、平坦になった所である。
  ここからは川上川沿いの快適な道となる。川沿いは見事な桜並木となっている所だ。
  川上川は、ゴルフ場(戸塚カントリー倶楽部)付近を源流とする短い川(約1km)で、平戸永谷川に流れ込んでいる。そして、この平戸永谷川は戸塚宿を流れる柏尾川に合流している。
柏尾川
  川上川沿いの道を暫く歩くと、現在の東海道(国道1号線)と交差するが、そのまま真っ直ぐ突っ切ると、写真左の柏尾川沿いの道となる。車の殆ど通らない静かな道である。
  柏尾川は、藤沢市川名で境川に流れ込んでいる河川で、二級河川に指定されている。
  横浜市内では2番目に流域面積の大きい川で、戸塚宿はこの川の河岸段丘上に発達している。    
益田家モチノキ
  柏尾川に架かる橋、赤関橋を渡ると、保土ヶ谷宿以来、久しぶりに現東海道と合流する。
  国道1号線を10分(850m)程歩くと旧東海道は左に分岐する。その手前左手に藁葺き屋根の旧家益田家がある。モチノキで知られたところだ。
  益田家のモチノキは旧東海道に面して今でも樹勢旺盛な大木である。通常は樹高10m位であるが、このモチノキは19mもあり、県の天然記念物に指定され、また神奈川県の名木100選にも選ばれている。
  江戸時代より「相模モチ」として知られていた古木である。
戸塚宿江戸方見附跡
  余談ではあるが、鳥モチは、モチノキの樹皮から採った粘着性物質で、捕鳥、補虫に用いられていた。樹皮を剥がし、水につけ、臼で搗き、流水で洗う手順を数回行うと鳥モチが出来ると言う。
  益田家の道路の反対側の小堂の中に「是より大山道」と書かれた古い大山道道標がある。
  国道1号線の左の不動坂を通り、暫く行くと丁字路になる。ここから右折し舞岡川沿いに進むと、再び現東海道に合流する。
  舞岡川に架かる五太夫橋を渡り、右手のフォルクスレストラン前にあるのが江戸方見附跡である。ここからが戸塚宿である。  
柏尾川
  戸塚宿は日本橋から10里半(42km)で、日本橋と小田原宿のほぼ中間にある。日本橋を早朝出立すると、最初に泊まる所がこの戸塚宿であった。
  当時の行程は一日10里(40km)が普通であった。あの弥次さん、喜多さんもここで最初の宿をとっている。
  相模の国の最初の宿である戸塚宿は、東海道の客だけでなく、大山や鎌倉方面の参詣客でも賑わっていた。本陣2、脇本陣3、旅籠75もある大きな宿場であった。  
吉田大橋
  旧東海道はここで柏尾川に架かる吉田大橋を渡り、対岸に行くとすぐJR戸塚駅となる。
  安藤広重の「東海道五十三次内戸塚」に描かれている吉田橋のあったところである。
  絵の中で、橋の袂に道標があり、「左りかまくら道」とあった所である。この道標は、今でも近くの妙秀寺の保存されている。
  橋を渡ると右側が八王子道と、ここは交通の要衝でもあった。
JR戸塚駅前踏切
  開かずの踏み切りとしても知られた所。今日はここで昼食を取った。旧東海道もこの辺まで来ると、駅付近で食事を取らないと、食べるところを探すのに苦労する様になる。
  写真右奥に清源院長林寺がある。徳川家康の有名な側室於万の方が元和6年(1621年)開基した寺。於万の方の火葬跡碑ある。
  本尊は於万の方が駿府にいる家康を見舞いに行った折、下賜された歯吹阿弥陀如来とのこと。  
澤辺本陣跡
  芭蕉の句碑「世の人の見つけぬ花や軒の栗」や、珍しい心中の碑「井に浮かふ番ひ(つがい)の果てや秋の蝶」(文久3年、1863年)がある。
  戸塚の薬屋大島屋の倅清三朗(19才)と伊勢屋の飯盛(めしもり)女ヤマ(16歳)が寺の井戸で心中したことを詠んだものだ。ご法度であった心中を詠んだ句碑は全国でも非常に珍しいとのこと。
  左写真は澤辺(さわべ)本陣があった所。内田本陣は、現在の戸塚郵便局付近にあり、この辺りが戸塚宿の中心地であった。
富塚(とつか)八幡宮
  八坂神社の前に戸塚宿の高札場があった。その直ぐ先の冨塚八幡宮は源頼義・義家親子の建立と伝えらている。
  周囲には古墳があり、この辺は、かつては冨塚(とみつか)郷と呼ばれていた。戸塚の地名はこの古墳を意味する冨塚からきている様だ。
戸塚宿上方見附跡
  上方見附跡(戸塚町2995番地、大坂下)を出ると、長大な坂「大坂(おおさか)」に入る。この坂は戸塚の坂とも呼ばれていた所である。
  今回は、この後、大坂を登り藤沢宿、そして茅ヶ崎の一里塚まで歩を進めた。



ルート
 
JR東戸塚〜品濃坂下
〜川上川〜柏尾川
戸塚宿江戸方見附跡
〜吉田大橋〜JR戸塚駅
〜戸塚宿澤部本陣跡
〜益田家モノノキ
〜大坂下、京方見附跡


歩行距離 6.0km


休憩所・トイレ

JR東戸塚駅
江戸方見附裏 ダイエー
JR戸塚駅、丸井


名 物

蕎麦饅頭、茶饅頭
戸塚宿中屋 嘉永2年(1849年)創業


 

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0411/0503
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歩行略図

東戸塚〜品濃坂下〜戸塚宿京方見附
歩行 青線部
( 6.0km )






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