悠々人の日本写真紀行

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(13)

大坂下〜6藤沢宿
Oosaka − Fuzisawa

旧東海道・大坂台 
  大坂は戸塚の坂とも呼ばれている。その急な坂の途中(大坂台)右手に、旧街道を見下ろすように庚申塔などの古碑群が残されている。
  元禄4年(1828年)、元禄8年と彫られている。また少し離れたところに馬頭観世音もある。
  大坂は長大な坂で、
  「佐野の馬 戸塚の坂で 二度ころび」
と川柳に詠まれているところだ。
  佐野の馬とは、謡曲「鉢の木」の主人公佐野源左衛門と、その馬のことである。いざ鎌倉と駆けつけるが、貧乏で栄養失調の馬が、この長い坂で息切れしてしまったとのこと。  
旧東海道・大坂上
  大坂を登り切ったところである。ここで、旧東海道は現在の東海道(国道1号線)と合流する。視界が開け、左手下には戸塚の市街地が見下ろせる様になる。
  道沿いに,松並木が残っている。少し歩くと左手道沿いにあるのが「お軽勘平戸塚山道行(みちゆき)の場」碑がある。
お軽・勘平の碑
  歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目、塩谷(えんや)判官の家臣早野勘平と腰元お軽が、お軽の在所への道行の途中、
  「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽に問うところである。
  お軽が「なんの、それよりはまだ行先が思われて」と応えると、勘平「さうであろう。しかし昼は人目を憚る故」、「幸ひここの松陰で」、「暫しがうちの足休め」、「ほんにそれがよいわいの」・・・と、名場面となったところである。  
原宿一里塚跡
  お軽、勘平のやりとりから、この辺が山中で、松並木のあったところであることが伺われる。
  今もその面影を感じることが出来る道筋となっている。さらに進むと、左手に原宿の一里塚跡がある。
  わずかに説明版があるだけで、その痕跡は残されていない。地名として一里山の俗称のみ残されている。
  日本橋から11里(44km)とあるから、良くもここまで、てくてくと歩いてきたものだと、一人悦に入った。
浅間神社
  一里塚の道の反対側には浅間神社がある。長い参道の奥に古い社殿がある。
  古くから原宿地区の鎮守社で、中世以降流行した冨士信仰をもとにした神社の一つ。創建は永禄年間(1558〜69年)と伝えられている。
  参道には、今も整然と古い椎(しい)の木が並んでおり、横浜市の名木古木に指定されている。
諏訪神社
    浅間神社からしばらくは国道1号線を歩くことになる。約30分歩くと、旧東海道は左手に入る。車の多い国道1号線を離れると、いつもの事ながらほっとする。
  旧東海道に入り、少し行くと、左側にあるのが諏訪神社(横浜市戸塚区影取町)である。この辺りの池に大蛇が棲み、旅人の影を呑んだことから影取町となった由。
  ここで小休止をした。街道歩きをしていると、こういう神社はありがたい。まさに旅人のオアシスである(拝礼)。
旧東海道・松並木跡記念碑
  諏訪神社を出ると、すぐ藤沢市入口との道標に出会う。さらに歩を進めると、旧東海道松並木址の碑が建っている所に出る。
  その説明板によると、つい最近まで鬱蒼とした見事な松並木であったが、昭和36年ころから、全国各地に猛威を振るった松喰い虫の被害で、無残にも大半が枯れてしまったとのこと。  
遊行寺坂(道場坂)
  やがて、道は急な下り坂となる。通称道場坂と呼ばれるところだ。道の右手に一里塚跡の碑がある。
  さらに進むと、左手にあるのが諏訪神社である。道路を挟んで反対側には遊行寺がある。
諏訪神社
  諏訪神社は街道より階段を上がったところにある。諏訪神社は、建武2年(1335)遊行寺を創建した呑海上人(どんかいしょうにん)が勧請したものと伝えられている。そんな関係か、今でも例大祭の神輿の宮入は遊行寺で行われている。
  街道歩きをしていると、諏訪神社はあちこちで見かける。調べてみると、全国で5000社もあるようだ。
  諏訪神社は、古くは狩猟の神として崇められてきたが、のち農耕神、武神としても信仰される様になっている。
遊行寺の大銀杏
  旧東海道の右手に遊行寺(ゆぎょうじ)、正式には清浄光寺(しょうじょうこうじ)がある。街道より幅の広い石段を登った所だ。弥陀の「四十八願」になぞらえた四十八段の階段である。
  境内に入ると目の前に、樹齢660年の大銀杏がある。木の下のベンチに座っている人と、右手の樹木と比較すると如何に大きいかが分かると思う。
  藤沢宿はこの遊行寺の門前町として発達した町である。 
遊行寺本堂 
  時宗の総本山で、藤沢(とうたく)山無量光院と号し、正中2年(1325年)時宗遊行4代の呑海(どんかい)の創建という。
  境内にある元塔頭(たっちゅう)の長生院は、小栗堂と呼ばれ、歌舞伎でも御馴染みの小栗判官と照手姫伝説で知られている。
  また敵御方(てきみかた)供養塔は1416年上杉禅秀の乱の時、上杉と足利両軍の人馬の供養のために建てられたものである。両軍の死者を一箇所に弔われた日本で最古の供養塔となっている。
遊行寺総門
  総門とは禅寺の表門のことである。右に時宗総本山、左に清浄光寺と大きく書かれている。日本三大黒門の一つと言われている大きな冠木門(かぶきもん)である。
  冠木とは、柱の頂上より少し下に横木がある門をいう。頂上にある横木の場合は笠木という。
旧東海道・藤沢橋
  遊行寺坂を下り、境川に架かる藤沢橋を渡ると、藤沢宿である。写真は藤沢橋で、遊行寺橋より撮影したものである。
  この橋を渡ると江の島への分かれ道がある。藤沢宿は橋を渡り、右手一帯がそうであった。街道沿いには今でも古い看板や店構えの建物が残されている。
  藤沢宿は本陣1、旅籠49軒で、江ノ島道や鎌倉道へ行く旅人の宿としても賑わっていた。  
旧東海道・遊行橋
  写真は境川に架かる藤沢橋と遊行橋との間にある建物である。橋の袂にあるこの立て看板には、「東海道藤沢宿昔話のある町」、「仲久保町、旅籠町」と書いてある。
  背後の洒落た建物は藤沢橋自動車排気ガス測定局である。旧東海道に面しているため、景観を考慮し雰囲気を出した建物とのこと。
藤沢宿問屋場跡
  かつて、ここに藤沢宿の問屋場があった。本陣は、反対側の本町郵便局の向かいにあったが、共に、今は小さな赤い標識があるのみである。
  街道の左手に入った所にある永勝寺には、宿場で働いた飯盛女39人の墓が並んで建っている。旅籠屋の小松屋源蔵が建てたもの。
  街道右手には、源義経の首洗い井戸があり、その裏手に、義経を祀った白幡神社がある。
    奥州で死んだ義経の首級が鎌倉の片瀬海岸に捨てられ、境川を遡って漂流してきたのを里人が洗い清め、葬ったとのこと。
小田急線・藤沢本町駅
  小田急の江ノ島線がこの陸橋(伊勢山橋)の下を通っている。右手に藤沢本町の駅のあるところである。
  この陸橋を渡った辺りが京方見附のあったところである。ここで、藤沢宿と別れ、いよいよ次は平塚宿への道程となる。  
旧東海道・引地川
  京方見附跡から約900m歩くと、引地川に着く。左写真は引地橋より上流を見たものである。
  藤沢は、渕の沢から転訛したとの説が有力とのことであるが、そんな雰囲気を漂わせている写真である。この辺りは藤沢市郊外の閑静な住宅街となっている。
  引地川は、神奈川県大和市から、藤沢市を通って、南にまっすぐ相模湾に流れ込んでいる総延長21kmの2級河川である。
  ここで小休止した後、平塚に向かった。   



ルート
 
戸塚大坂下〜大坂台
〜原宿一里塚
〜遊行寺〜境川藤沢橋
〜藤沢宿問屋場跡
〜藤沢本町〜引地川

歩行距離 8.8km


休憩所・トイレ

遊行寺 境内


名 物

松露(しょうろ)羊羹
豊島屋 嘉永2年(1849年)創業


 

戸塚宿 目次 平塚宿

0411/0504/0906
Hitosh


歩行略図

戸塚大坂下〜藤沢宿〜引地川
歩行 青線部
( 8.8km )








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