悠々人の日本写真紀行

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(14)

引地川〜7平塚宿
Oosaka − Fuzisawa


メ モ

通貨の換算(目安)

金1両 = 銀60匁 = 銭400文 = 米1石 = 6万円
1文 = 15円
1匁 = 1000円


− 参考 −

馬入の渡し 一人12文(約180円)
旅籠代 200文(3000円)
木銭(木賃宿、食事無し) 48文(720円)
平塚宿昼食 64文(960円)
立場茶屋 32文(480円) 
飯盛り女(藤沢宿) 揚代 500文(7500円)

四ツ谷一里塚付近
  藤沢宿の引地(ひきじ)川を渡り、約30分(1.6km)ほど旧東海道を歩くと、現在の東海道(国道1号線)に合流する。
  合流して、直ぐ右手に「是より右大山みち」の大山道標が小さなお堂の中に保存されている。不動明王を乗せた延宝4年(1676年)の道標で、安永4年(1775年)の鐘等とともに収められている。
  さらに進むと左手に四ツ谷一里塚跡(標木のみ)がある。日本橋より13番目の一里塚となる。
旧東海道・茅ヶ崎の松並木
  現東海道もここまでくると、所々に松並木が残され、緑の多い静かな街道筋となっている。
  左手にトイレで知られたTOTO(東陶)の大きな工場がある。よく仕事で来たところなので、懐かしかった。当時、まさかこうやって、又歩いて来るとは予想もしなかった。
茅ヶ崎一里塚
  茅ヶ崎の市街地に入ると左手に茅ヶ崎一里塚が保存されている。ここより駅前に抜ける道が一里塚通りと命名されているところである。松、榎、桜各1本が植えられている。江戸から14里である。
  街道を歩いていて、市街地でこれだけ丁寧に一里塚が保存されているところは始めてであった。茅ヶ崎市に敬意を表したい。
第六天神社
  十間坂にある第六天神社である。創立年代は不詳であるが、江戸幕府編纂 の「新編相模風土記」(天保12年、1842年)には記載されている。
  第六天とは、他化自在天(たけじざいてん)と同じで、欲界六天の第6で、欲界の最高所。他人の樂事(らくじ)を自由自在に自己の樂しみとして受用してしまうという。
  織田信長の第六天への信奉が特に篤かったという。その後、秀吉がその強大な神威を恐れて、廃社を命じた為、現在残されている第六天は非常に少ないとのこと(西国ではゼロ)。
千ノ川鳥居橋・左冨士
  千ノ川に掛かる鳥居戸橋。神奈川県唯一の左富士の名所。京へ上る時、いつも右手に見える富士がここでは左手に見えるところ(写真左手)である。
  橋を渡って左側に「南湖の左富士之碑」が建っている。吉原(富士市)にも有名な左富士の見えるところがある。そこには左富士神社まで出来ている。 
鳥居橋・鶴峰八幡宮鳥居
  鳥居戸橋の右手にある赤い大きな鳥居は鶴峰八幡宮神社への入口。参道両側の松並木は約1km続いている。
  境内の樹齢数百年の大銀杏(樹高27m)が有名である。県の天然記念物に指定されている。前九年の役(1051年)の戦勝祈願に、源義家が自ら手植えしたと伝えられている。
小出川・下町屋橋
  さらに進むと小出川に掛かる下町屋橋に着く。ここでは正面に富士が見える。
  小出川手前左側(写真の左手)に旧相模川橋脚(国史跡)が残されている。関東大震災の時、水田が隆起し、鎌倉時代の旧橋脚が出現したものだ。橋脚の直径は2尺余、3列に並び、橋の幅は7m。
  この橋脚の出現により、鎌倉時代の相模川はここ(現小出川)を流れていたことがわかる。
  建久9年(1198年)、源頼朝がこの橋の渡り初め(橋供養と言った)に出席した時、落馬し、これが原因で死亡した曰く付きの橋である。
  なお、写真右手の橋桁は新湘南バイパスである。
信隆寺
  小出川を渡ると直ぐ右手に日蓮宗の信隆寺(しんりゅうじ)がある。寺の縁起によると、信玄の父武田信虎の弟勝沼信友の子信就が、武田勝頼に従軍し、天目山の戦いで、織田・徳川連合軍に敗れた時、数名の家臣と共にここまで逃れて剃髪し、正中寺法華経寺の善立院日意上人を招いてこの寺を開基したとある。
  なお現在の寺は太平洋戦争の空襲で全焼したため、その後に再建されたもの。
馬入川(相模川)
  ここの船渡しは一人12文(約180円)であった。右正面に富士山、左正面に箱根、手前に高麗山、右側に大山を始め、丹沢山塊、そして左側は河口である。街道歩きで久しぶりに開放的な所だ。
  橋を渡るといよいよ平塚宿である。橋を渡って右側にちょんまげ最中と力持ちで知られた菓子屋弘栄堂がある。力餅は、裏手の蓮光寺の持ち上げ地蔵に因んだもの。
馬入の一里塚跡
  橋を渡ると、すぐ旧東海道は左へ分岐する。
  現在は標識のみであるが、この辺りに馬入の一里塚があった。江戸より15番目の一里塚である。
  左の旧東海道を進むと、10分程で平塚駅前に出る。この旧東海道が夏の名物、七夕祭りの中心となっている。街道沿いに数千本の大きな竹飾りが覆う様は壮観である。
  なお、日本三大七夕祭りとは仙台と、愛知県一宮と、ここ平塚である。 
平塚宿見附跡
  駅前通りの少し先の路地を左側に入った所にある紅谷(べにや)公園に 歌舞伎の番町皿屋敷の主人公お菊塚がある。
  平塚宿役人真壁源右衛門の娘、お菊が江戸の旗本青山主膳方で行儀見習い中、主人愛蔵の皿を破損し手打ちに合う。その亡骸を馬入川の渡し場で受け取り、ここに葬ったもの。
  旧東海道に戻り、少し歩くと右手に平塚見附跡がある(写真左下部)。
平塚宿脇本陣跡
  さらに、平塚見附跡を抜けると、平塚宿の碑、脇本陣跡、高札場、東組問屋場跡、本陣跡、西組問屋場跡と続いている。
  この辺一帯は空襲で総て焼け、ただ街道筋に標識が立っているだけである。
  平塚宿は本陣1(代々、加藤七朗兵衛を名乗る)、脇本陣1、旅籠54軒であった。
平塚宿高札場跡
  次の大磯宿との間は27町(約3km)しか無く、東海道の宿間距離では2番目に短いところである。
  そんな関係もあり競争が激しく、平塚に泊まらせようとして、留女(とめおんな)達の客引きの盛んなところであった。
  特に、京方見附の先の高麗(こま)山を指して、実際の街道は高麗山の左側を通っているのに、「あの高麗山を越えぬと大磯には行けぬ」と嘘をついて強引に平塚に泊めたという。
平塚宿西組問屋場跡
  西組問屋跡の角を右に曲がると、突き当たりに日蓮宗の要法寺。その左隣にあるのが春日神社。
  その右手に石垣を巡らした小さな塚がある。平塚の地名の起こりとなった平塚の塚である。
  天安元年(857年)桓武天皇の曹孫で坂東平氏の始祖といわれた平真砂子(たいらのまさご)が一族とともに東国へ向かう途中、ここで没したため、遺骸を埋め、この塚を築いたという。従って当時の呼び方は、「たいらつか」であった。
平塚宿上方見附跡
  旧東海道と現東海道の国道1号線と合流した所に、立派な上方見附が再現されている。目の前には花水(はなみず)川の花水橋が見えるところである。その先には高麗(こま)山がある。
  ここで平塚宿に別れを告げ、次の大磯宿に向かった。



ルート
 
藤沢宿引地川〜四谷一里塚
〜茅ヶ崎一里塚〜第六天神社
〜千ノ川、鳥居橋〜小出川
〜馬入川(相模川)〜平塚宿
〜平塚宿上方見附跡

歩行距離 13.0km


休憩所・トイレ

無し

名 物

味付け落花生
旧東海道沿い 富田豆店、波多野屋


 

藤沢宿 目次 大磯宿

0411/0505
Hitosh


歩行略図

藤沢宿引地川〜平塚宿京方見附跡
歩行 青線部
( 13.0km )









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