悠々人の日本写真紀行

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(15)

花水橋〜8大磯宿
Hanamizuhashi − Ooiso

花水橋
  平塚宿の京方見附跡を出ると、すぐ花水(はなみず)川に架かる花水橋となる。右手には丹沢山塊や大山(おおやま、写真右上部、標高1252m)が良く見える。
  大磯丘陵と丹沢山塊の間に挟まれた秦野盆地の水を集めた金目(かなめ)川が、渋田川、河内川と合流し花水川となって、高麗山を巻く様にして相模湾に流れ込むところである。
  橋左手前の碑には、「大磯八景の一、花水橋の夕照 高麗山に入るかと見えし夕日影 花水橋にはえて残れり 義之」とある。   
高麗山
  橋を渡ると目の前にある、形の良い山が高麗山(こまやま、標高168m)である。低い山ではあるが、形が良く、近くに他の山が無いので、目立つ山となっている。
  この高麗山と花水川に挟まれた地域が高麗で、さらに河口側が唐ヶ原(もろこしがはら)となっている。平安時代の「更科日記」にも「もろこしが原」と出てくるところだ。
  唐・新羅の連合軍に敗れた高句麗人の王族・高麗若光(こまのじゃっこう)らが移り住んだ所と推定されている。
善福寺
  この地から金氏が花水川を遡って開いたのが金田や金目であり、秦氏が開拓したのが秦野盆地である。
  花水川を渡って直ぐ左手にあるのが禅福寺である。国指定重要文化財木像、伝了源上人坐像がある。
  境内の左手には巌窟があるが、これは奈良から平安時代にかけての横穴式古墳の跡とのことである。
高麗・旧民家
  善福寺の斜め前の藁葺き屋根の大きな旧家である。この辺の地名は高麗となっているが、江戸時代は高麗寺村であったところだ。
  高麗神社の別当寺であった高麗寺は、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺となり、今は末寺の慶覚院(けいがくいん)が神社の参道右側に残っているだけである。
高来神社
  高来神社は明治以降「たかくじんじゃ」と読ませている。しかし江戸時代までは、高麗(こうらい)神社であった。朝鮮を支配し属国にする時に、日本人の先祖に朝鮮よりの渡来人が多数いるのが政治的に面白くなかったからであろう。
  伝承では、神功(じんぐう)皇后の三韓征伐の頃、武内宿禰(たけのうちのすくね)が、三韓の神を移したのが始まりとなっているが、実際は高句麗からの渡来人の創建と云われている。
  三韓とは朝鮮半島南部の馬韓、辰韓、弁韓を指している。その北部に高句麗があった。
化粧坂
  ここ化粧坂(けわいざか)の交差点で、旧東海道は国道一号線と別れ、右手の松並木の残されている緩い登り坂の狭い道となる。
  この写真の左手に「化粧坂公園」があり、ベンチやトイレもあるので小休止をした。街道に面したこんな公園は歩行の旅には非常にありがたい。まさにオアシスである。
  化粧坂とは、何とも粋な名前のついた坂である。調べて見ると、鎌倉時代はこの辺が、大磯の中心で
遊郭が軒を並べていたとのこと。
虎御前の化粧(けわい)井戸
  伝承によると、虎御前がこの井戸の水を用い化粧をしていたとのこと。説明版は実にあっさりしている。
  虎御前とは、曽我十郎祐成(すけなり)の愛妾として知られている山下長者の娘(遊女)で、詩歌、管弦に通じ、大層な美人であったそうだ。
  虎御前の生誕地とその親の長者の屋敷跡(山下長者屋敷跡)が平塚市山下にあり、空壕や土塁が今も残されている。  
化粧坂一里塚跡
  山下長者屋敷跡は、鎌倉時代前期の典型的な豪族の屋敷として貴重なものとか。晩年の虎御前がここで一時庵を結んだと伝えられている。
  化粧井戸から数分の所に、化粧坂一里塚跡がある。江戸日本橋より16番目(66.8km)の一里塚であるがその面影は何もない。ただ、説明版があるだけであった。
旧東海道化粧坂
  一里塚を過ぎると、こんな松並木となる。しかし、400mも歩かないうちに旧街道は、JR東海道線に遮られてしまう。
  歩行者は、線路の下の薄暗いガード下の横断トンネルを通り抜けないと先に進めない。そのJR東海道線の手前にある歌碑が下の写真である。
化粧坂歌碑
  大きな歌碑には「大磯八景の一 化粧坂の夜雨 雨の夜は静けかりけり 化粧坂松の雫の音ばかりして 義之」とある。
  トンネルを抜けると、再び大きな松の木が残る道となるが、すぐに(350m程で)国道1号線と合流する。
地福寺
  JR大磯駅入口を過ぎると、右手に大磯宿川島本陣旧跡の碑がある。
  そして右手少し奥にあるのが地福(ぢふく)寺である。真言宗の古刹で、家康が利用したという茶屋がある。また、境内には島崎藤村・静子夫妻の墓があることで知られている。境内には梅の老巨木群がある。
  街道を挟んで反対側の延台(えんだい)寺には、曽我兄弟霊像と、曽我十郎祐成身代わり虎御石の碑がある。
  なお、伝説の虎石は法虎庵曽我堂に安置されている。長さ、2尺3寸、細長く扁平なこの石を、美男ならば持ち上げることが出来ると云う。
新島襄先生終焉の地碑
  さらに進むと、左側に徳富蘇峰筆の同志社大学創設者「新島襄先生終焉の地」碑がある。ここにあった旅館百足(むかで)屋で、明治23年に亡くなったという。
  その手前の木製の道標に大きく「左、日本海水浴場発祥の地」と書いてある。
  日本人にとって、海は生活の場であったのを、海で遊ぶ、つまり海水浴をするようになったのは明治18年からとのこと。
  初代の陸軍軍医総監であった松本順が、この大磯宿の浜辺に、後に大磯町長となった旅館百足屋の主人宮代謙吉と協力して、日本で始めて海水浴場を開設したという。
湘南発祥の地碑
  松本順は勝海舟の「海軍伝習所」で、オランダ人の医師ポンペ・ファン・メーデルフォルトに医学を学んだ時に、オランダの本の中に書かれていた「海水浴」を知り、如何に健康に良いかを説き、開設に漕ぎ着けたという。
  なお、最初は小田原の海に開設しようとしたが、町民の理解が得られず、この大磯にしたのこと。
  左手に「湘南発祥の地」碑がある。これには、中国湖南省にある洞庭湖の畔、湘江の南側を湘南と言うが、その地に大磯が似ているところから湘南と呼ばれるようになったと書かれている。 
鴫立庵
  小田原の医師の子、崇雪(そうせつ)が、寛文4年(1664年)、西行法師の詠んだ名歌 「心なき身にも あわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」 を慕って、鴫立沢(しぎたつさわ)の畔に、草庵鴫立庵(しぎたつあん)を結んだ。
  そして、標石を立て、東海道を往還する人に鴫立沢を示し、「 著盡湘南清絶地 」と景勝を讃えて刻んだのが、湘南の始まりとのこと。
  鴫立庵は元禄時代に俳人大淀三千風(みちかぜ)が入庵してから有名になり、多くの俳人が集まるようになった。
鴫立沢
  境内には庵の他、木造の西行像を祀る円位堂、虎御前の肖像がある虎尼堂、孫文の持仏(じぶつ)と伝えられる観音を祀る興徳殿や代々の庵主の石碑、歌碑等が多数残されている。
  なお、この鴫立庵と、京都の樂柿舎(らくししゃ)、近江の無名庵(むみょうあん)が俳諧3大道場と呼ばれていた。
  鴫立沢は現在でも深い渓谷で、綺麗な水が流れている。この畔の木陰で、小休止をした。
大磯宿西方見附跡
  大磯宿の西片見附跡である。ここで、大磯宿は終わり、これより小田原宿への道程となる。
  なお、大磯宿は、本陣3(尾上本陣、小島本陣、石井本陣)、脇本陣6、旅籠66の規模であった。
  大磯に来て、海を見ないのも、申し訳ない気持ちで、歩行の途中何度か海岸に行って見た。しかしどこも海岸線には道路(西湘バイパス)が走っていて、見晴らしが良く無かった。
小淘綾ノ浜
  大磯中学校の横より、再度海岸線に出てみた。小淘綾(こゆるぎ)ノ浜である。
  ゆるぎとは、浪の動揺を現している。かつては余呂伎(よろぎ)、余綾(よろぎ)と書かれていた。今の大磯町から二見町は、相模国余綾(よろぎ)郡と呼ばれていた。
  万葉集に「 相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるるかも 」と詠まれているところである。  
大磯松並木
  大磯中学校の前の見事な松並木である。写真は中学校前の歩道橋より撮影したものだ。東海道屈指の松並木である。
  今から約400年前、家康の命により街道の整備をした時に植えられ、立ち枯れしたものは村々ごとに植え継がれ、大切に保護されてきたものである。  
松並木年輪
  ところが、この400年続いた松並木も、最近の全国的なマツクイムシの被害で多くの松がやられてしまった。
  左の写真は、平成6年11月にマツクイムシの被害にあった老松の切り株である。樹齢は217年とある。街道の脇に、建設省横浜国道工事事務所小田原出張所支所により記念に保存されている。
滄浪閣、伊藤候別荘跡
  さらに歩を進めると、左に滄浪閣(そうろうかく)がある。初代総理大臣伊藤博文の旧邸で、今は結婚式場、中華料理店となっている。
  この裏手には吉田茂の旧邸がある。その他、この辺りの小淘綾(こゆるぎ)ノ浜を望む海岸線には、旧山内邸、徳川邸、山縣低、沖邸、大熊邸、西園寺邸、池田邸等々とそうそうたる名士の邸宅や別荘が並んでいた。
  まだ陽は高かったので、次の小田原宿へ向け、歩を進めた。  



ルート
 
平塚宿 花水川 花水橋
〜高麗山〜高来神社
〜化粧坂〜鴫立沢、鴫立庵
〜大磯宿 西方見附跡
〜大磯松並木〜小淘綾ノ浜
〜滄浪閣


歩行距離 3.25km


休憩所・トイレ

化粧坂公園

名 物

手作りこんにゃく・大玉柿
共に古くからの当地名産品


 

藤沢宿 目次 二宮〜国府津

0411/0505
Hitosh


歩行略図

平塚宿花水橋〜大磯宿滄浪閣
歩行 青線部
( 3.25km )






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