悠々人の日本写真紀行

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(18)

小田原〜箱根湯本
Odawara−Hakoneyumoto



メ モ


立 場

街道で、人夫が駕籠などを止めて休息する所
茶屋は旅人の休息所で、お茶のほか、名物の菓子や、昼食などをだした


箱根八里

鳥居忱作詞 滝廉太郎作曲

箱根の山は天下の険
   函谷関も物ならず
   万丈の山 千仭の谷
   前に聳え後に支う
   雲は山をめぐり
   霧は谷をとざす
   昼猶闇き杉の並木
   羊腸の小径は苔滑か
   一夫関に当たるや
   万夫も開くなし
   天下に旅する
   剛毅の武士
   大刀腰に足駄がけ
   八里の岩根踏み鳴らす
   斯くこそありしか
   往時の武士・・・」


箱根登山鉄道板橋駅
  東海道本線と新幹線のガードをくぐると、すぐ左手に箱根登山鉄道の板橋駅がある。旧東海道は、新幹線のガードの手前を右に入っている。
  これから箱根湯本までは箱根登山鉄道とほぼ並行して歩くことになる。
  次の風祭にある碑に「行こか板橋 もどろか箱根 此処が思案の涙橋」と書かれている。板橋から箱根に嫁いだ女性が、婚家の辛さに、この思案橋で涙に暮れるところであったとか。その板橋村である。
  少し進むと、右側に板橋地蔵尊の堂々たる本堂がある。大きな大黒天がある事で知られている。
  境内には一刀流6代目の横田常右衛門豊房と、7代目石坂四郎治政宣の墓がある。  
箱根八里
  小田原から箱根までの道はいつも渋滞が激しい。この辺は、歩道も広く、何十台もの車を追い越して歩けるところである。
  箱根八里(32km)とは小田原宿高札場から三島までの山道を言う。
     東京音楽学校教授の鳥居忱(まこと)が作詞し、当時まだ学生であった滝廉太郎が作曲した「箱根八里」を思い出すところだ。
 
 今の人は、氷川きよしの「箱根八里の半次郎」の方を思い出すのかもしれない。
箱根登山鉄道踏切
  小田原厚木道路の下を潜った所で、国道1号線(現東海道)より旧東海道は右に分かれ、箱根登山鉄道の踏み切りを渡る。
  電車は箱根湯元と新宿を結んでいる小田急のロマンスカーである。
  踏み切りを渡り、すぐ右手に日蓮旧蹟である大きな岩、象ヶ鼻がある。日蓮が身延山への往来の途中、この岩の上より故郷の安房を臨み、亡き父母を偲んだという。
風祭(かざまつり)の旧東海道
  旧東海道の道幅のまま残されている。道沿い右手に国立箱根療養所のあるところである。仕事で良く来たことがある。当時は電車(風祭駅下車)や車で来たが、今回は徒歩である。
  知り合いの医師が何人も居るが、訪ねるとさぞ驚かれることであろう。今回はノーネクタイにリュック姿であるので、玄関先をそっと覗くだけで通過した。
入生田長興山紹太寺
  旧東海道をさらに進むと右手に長興山紹太寺の広い参道がある。江戸時代には、東海道に面したこの場所に石造りの門が建っていた。写真右手奥に、その総門に使われた石が、今でも積み上げられている。
  紹太寺は、春日の局と、その子で小田原城主となった稲葉正勝と稲葉氏一族の菩提寺である。
  今は、境内の樹齢320年と言われる高さ14mの枝垂れ桜が有名になっている。神奈川県の名木100選に選ばれている。
入生田の旧東海道
  登山鉄道の入生田(いりゆうだ)駅付近の旧東海道である。静かな佇まいを見せている。国道1号線の渋滞に比べ、旧東海道では車は殆ど通らなかった。
  この先、旧東海道は国道1号線と、何度か合流してはまた分かれ、箱根湯元の三枚橋交差点の手前で、再び国道一号線と合流する。
三枚橋手前の国道1号線
  小田原からここまでは殆ど旧道をのんびり歩くことが出来る。写真は、旧街道から現東海道に合流したところである。先方に見えるのは、箱根登山鉄道の箱根湯本駅である。
  旧東海道は、その手前左の三枚橋を渡っていくことになる。
三枚橋
  橋が一つなのに3枚橋とはこれ如何に。気になり調べてみた。かつては川幅が広く、2つの中洲があり、それこそ3つの橋が架かっていたので三枚橋というようになったとのこと。
  さらに、小田原から順番に、地獄橋、極楽橋、そして三昧橋と呼ばれていたという。橋を渡ると早雲寺があり、この寺に逃げ込むと、どんな罪人でも罪を免れると言われ、追手も地獄橋までは追うが、その後は追わなかったという。まさに地獄橋と極楽橋であった様だ。
  三昧橋はその先は仏三昧に生きよという意味らしい。
早 川
  三枚橋より上流を見た写真である。早川は箱根の芦ノ湖を源流とする川で、湯本で巣雲川と合流し、小田原市早川で相模湾に注いでいる。
  外輪山を横切るため、深く鋭い谷を刻んで流れている。そのため早川と呼ばれるようになった。
  早川に架かる三枚橋を渡ると、旧東海道は急な坂道となり、その両側にあるのが箱根湯本温泉街である。
  江戸時代より、この湯本を始め、芦ノ湯、木賀(きが)湯、底倉(そこくら)湯、宮ノ下湯、堂ヶ島湯、塔ノ沢湯が箱根七湯と言われていた。  
白山稲荷神社
  その後、強羅温泉、小湧谷温泉等5つの温泉が加えられ箱根12湯と言われる様になった。(参考、現在では21湯となっている)
  箱根湯本温泉は、今でこそ旅館やホテルが多数立ち並んでいるが、江戸時代の湯本は立場(たてば)で、旅人を泊めることが出来なかった。しかし、江戸も後期になるに従い、湯治にかこつけて泊まる客が増えたという。
  白山稲荷神社は、旧街道を挟んで早雲寺の反対側にあり、湯本温泉の鎮守である。
早雲寺本堂
  旧街道より苔生した山門を潜ると、臨済宗大徳寺派、金湯山早雲寺である。
  北条早雲の菩提寺として、その子氏綱が1521年に建立したものだ。天文11年(1542年)には、後奈良天皇綸旨(りんじ)によって勅願寺(ちょくがんじ)になったため、関東屈指の禅刹(ぜんさつ)となった。
  北条氏5代の墓や重要文化財に指定されている北条早雲画像、織物脹文台、硯函がある。
北条五代の墓碑
  天正18年(1590年)、秀吉の小田原討伐の時、早雲寺が本営となった。そして、後北条氏の滅亡と共に衰退した。
  本堂左横の石段を登ったところに北条五代の墓碑がある。これは、後になって河内国狭山藩主北条氏治(うじはる)によって、寛文12年(1672年)に建立された供養塔である。  
湯本温泉
  湯本温泉は早川と巣雲川の合流点にあり、箱根温泉郷の表玄関となっている。奈良時代に始まる箱根で最古の温泉として知られている。
  また寺に参詣する武将達が必ず湯本温泉に入ったことから「足洗いの湯」とも言われていた。
  写真は、秀吉が小田原城攻めの前夜、此処で茶湯を楽しんだと言われる街道に面した箱根の湯「花紋」である。
  現在は、箱根登山鉄道の箱根湯本駅が早川沿いに出来たため、温泉街の中心は、この街道筋よりも、早川の渓谷沿いが中心となっている。
箱根湯本もみじ橋
  今回は、早雲寺で日が大分翳ってきたので、寺の裏手にある早雲公園から箱根町役場、郷土資料館に立ち寄った後、早川に架かる歩行者専用のあじさい橋を渡り、写真右手の箱根湯本駅より電車に乗り帰宅した。
  いよいよ次回は箱根越えである。



ルート
 
小田原〜箱根登山鉄道板橋
〜風祭〜入生田
〜三枚橋〜箱根湯本温泉
〜白山稲荷神社〜早雲寺


歩行距離 5.01km


休憩所・トイレ

箱根湯本 早雲寺


名 物

温泉饅頭
100年の歴史を持つ
箱根湯本の丸嶋本店が元祖
白と茶の薄皮饅頭

湯 餅
箱根湯本駅前商店街のちもと
竹の皮に包まれた餅の表面が
湯上りの肌のように
すべすべしているから湯餅と言う



 

国府津〜小田原宿へ戻ります 目次 箱根畑宿へ移動します

0411/0507
Hitosh


歩行略図

小田原宿居神神社〜三枚橋〜早雲寺
歩行 青線部
( 5.01km )






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