正眼禅寺 今回は、箱根湯本駅より、早川に架かるもみじ橋を渡り、急坂を登って早雲公園を抜け、旧東海道に入った。現在の県道732号線である。 早雲寺の山門より約350mの左側にあるのが放光山正願寺(しょうがんじ)である。境内には曽我兄弟の供養塔と、曽我五郎の槍突石(鏃突石、やじりつきいし)がある。 この写真の右手に、曽我兄弟の生家、父河津三郎の屋敷跡がある。 |
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湯本一里塚跡 さらに少し行くと、右手に日本橋より22番目(44km)の一里塚跡がある。中央の石碑には「旧箱根街道一里塚跡の碑、江戸から二十二里」と彫られている。 この辺が箱根湯本の中心であった。街道の両側には茶屋がぎっしりと建っていたところである。 この一里塚を過ぎると、旧東海道は県道より右に下り、石畳の道となる。 |
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猿沢石畳 石畳は東坂だけで7ヶ所残されている。猿沢石畳みは、その最初の石畳道である。延宝8年(1680年)に石を敷き詰められたもので、長い間多くの人に踏まれたため、表面は平らで角がすっかり取れ、丸くなっている。 この猿沢の石畳は約255m残されており、国の指定史跡となっている。猫がいるのはご愛嬌である。車も通らず、鄙びた山道となっている。 |
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猿沢に架かる猿橋 猿沢石畳み道のほぼ中央にあるのが、猿沢に架かる猿橋である。 猿橋の上の胡散臭い建造物は、箱根湯本ホテルの本館と別館をつなぐ連絡通路「渡月橋」である。 猿沢石畳道は箱根観音(福寿院)の上で、再び県道と合流している。下の写真の中央の狭い道が猿沢石畳道で右側が県道732号線である。 |
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猿沢の石畳道と県道の合流点 写真左下が福寿院である。寺の縁起によると、江戸時代の初期、ここで京へ向かう旅人が追いはぎに遇い、身包み(みぐるみ)を剥がされ、須雲川の谷底へ突き落とされたが、途中の木に引っかかり、気を失ってしまった。 しばらくして、暖かいお湯が身体にかかり、気がつき、命拾いをした。そこでこの地を観音沢と名付け、小さな庵を結び観音菩薩像を安置し、一生を捧げたとのこと。旅人は村人から観音沢上人と呼ばれるようになった。 |
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須雲坂より箱根峠 またここのお湯は観音沢の温泉と呼ばれ、長命美人の湯とまで言われるようになった。 観音坂を上り、次の須雲坂に入ると、見晴らしの良い街道歩きとなる。この辺が、箱根湯本の一番奥で、奥湯本と呼ばれている。 この先、右に入る道に「躄(いざり)勝五郎之碑」がある。飯沼勝五郎は足を患い、ここで小屋掛けをして養生しながら機会を待ち、慶長4年(1599年)にやっと、兄の仇佐藤郷助を討つ事が出来た。 浄瑠璃「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」で御馴染みのところである。 |
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箱根大天狗神社 別院天聖院 勝五郎の妻初花(はつはな)が対岸の湯坂山の中腹の滝で、水垢離(みずごり)をとったところが初花の滝。今は樹木に隠れて街道からは見ることが出来ない。 さらも坂を登ると右側に金ぴか寺として知られた天聖院。正式には宗教法人、神仏金剛宗、箱根大天狗神社、別院天聖院という。 山門はもとより、絢爛豪華な本堂や七重塔と総て金箔で覆われている。 |
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須雲川 さらに坂を登り、箱根新道(現国道1号線)の須雲川インターを過ぎると、須雲川が良く見えるところに出る。川の反対側には須雲山荘バンガローのあるところである。 箱根東坂を登っていると、雲の着く地名や寺院が多いことに気がつく。 街道左手に駒形神社があるところだ。 |
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霊泉の滝 駒形神社の先が霊泉の滝。右の石段を登ったところが鎖雲寺(さうんじ)である。 普段は無住で、管理は正眼寺で行っている。本堂の右手の墓地の一角に、小さな五輪塔が2基並んで建っている。 これが浄瑠璃「「箱根霊験躄仇討」の勝五郎と初花の墓「比翼塚(ひよくづか)」である。 |
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鎖雲禅寺 霊泉山鎖雲寺は早雲寺の塔頭の一つとして湯本に創建されたが、東海道の賑わいに合わせ、寛永7年(1630年)にここ須雲川村に移されたとのこと。 この鎖雲寺を出ると須雲川に架かる須雲橋となる。この橋を渡ると、女転がしの坂となる。橋の左袂に「女転がし坂登り1町余」と掘られた石碑がある。 |
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須雲川自然探勝歩道 乗馬の女性がこの坂で落馬したことから女転がしの坂と呼ばれるようになった。 しかし、関東大震災の時、崩落してしまいその坂は今は無い。 須雲橋の手前を川沿いに須雲川自然探勝歩道が出来ている。舗装された県道を歩くのは面白くないので、この自然探勝歩道の道を選んだ。 入口の道標に畑宿まで1700m、元箱根まで6200mと書いてあった。 |
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須雲川渓谷 樹間より須雲川渓谷が見え、なかなか快適な歩道となっている。旧東海道はこうであったろうという感じの道である。 今回は山仲間で写真仲間のR氏と同行であったので、なおさら快適な山歩きをしている感じであった。 |
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須雲川仮設木橋 途中で、須雲川を渡る所がある。ちゃんとした橋が出来ているわけではなく、丸太で出来た梯子状の橋が渓谷の岩と岩の上に掛けてある。 手前から坂を下り、この丸木橋を渡って対岸に行くようになっている。手前に大きく「あぶない、増水時注意」との警告板がある。 対岸に渡ると、急な坂を上り、県道に出る。この坂の途中が一部旧東海道になっている。 |
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割石坂石畳道 自然歩道より県道に戻り横断すると「割石坂(わりいしさか)登り1町余」と掘られた石の道標がある。ここからまた暫くは旧街道歩きとなる。 案内板に、曽我五郎が冨士の裾野に仇討ちに向かう途中、ここで腰の大刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真っ二つに切り割ったところと書かれている。 |
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須雲川支流の大澤 割石坂から県道に戻り暫く歩くと左手に旧東海道入口がある。 旧街道に入ると、直ぐに須雲川の支流大澤(左写真)に出る。この大澤に架かる木製の橋を渡ると大澤坂の石畳道となる。 幕府の下田奉行小笠原永安の「甲甲旅日記」に、「大澤坂または坐頭転ばし坂ともいうとぞ、このあたりつつじ盛んにて、殊珠によし」と書かれたところである。 |
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大澤坂 当時の石畳が一番良く残されている坂で、苔生した石畳は往時を偲ばせてくれる。と書くと良いが、実際は登山道としても悪路で、連れのR氏も足を滑らせた。 石がしっとりと濡れ、その上苔生しているのである。滑らないように注意しながら、ごつごつとした大きな石を一歩一歩踏みしめて登る他ない。 |
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大澤坂石畳 また、畑宿から上の旧東海道は、現在でもハイカー等により良く歩かれているが、畑宿の下のこの坂は歩く人も少ない。 我々は、軽登山靴とハイキングスタイルであるから、快適であったが、注意が必要なところである。 |
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畑宿入口 大澤坂を上りきったところが畑宿である。寄木細工の里として知られた畑宿は、江戸時代は間の宿として栄えたところだ。 説明版によると、畑宿は、郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ育ったところ。畑宿で木地細工が作られた記録は古く、小田原北条時代まで遡るとのこと。 |
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畑宿本陣跡バス停 江戸時代の畑宿は、箱根旧街道の間の宿として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工に人気があったとのこと。 箱根細工は、古くは木地挽きから起こった。後北条氏の小田原の発展に伴い、轆轤(ろくろ)を使った挽き物と、平面的な箱物などの指物(さしもの)が製品として作られるようになった。 |
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畑宿茗荷屋本陣跡 江戸時代中期以降は、指物の中では御馴染みの寄木(よせぎ)細工と象嵌(ぞうがん)細工(メモ参照)が中心となり、人気を博した。 畑宿には、この伝統工芸を紹介する「畑宿寄木会館」が作られ、展示、実演、即売を行っている。 写真は畑宿の茗荷屋本陣跡である。建物は無いが、当時の日本庭園は残されている。 |
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箱根駒形神社 本陣跡の先にあるのが箱根駒形神社。駒形神社は畑宿の鎮守で、箱根神社の社外の末社として、荒湯駒形権現とも言われている。 さらに畑宿の街路を歩くと、左手に守源寺がある。箱根七福神の一つ蓄財の神様、大黒天が本堂右側の大黒堂に祀られている。 なお、箱根七福神巡りは江戸時代初期より庶民の間に広まった信仰で、今でも人気がある。特に正月には多くの人が訪れるとのこと。 |
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箱根大黒天、守源寺 箱根の七福神は、この大黒天(畑宿、守源寺)をスタートして、、恵比寿神社(元箱根、箱根神社)、布袋尊(元箱根、興福院)、寿老人(箱根町、本還寺)、毘沙門天(箱根町、駒形神社)、弁財天(芦の湯、阿字ヶ池弁天)、福禄寿(小湧園内、山王神社)と回るコースとなっている。次の機会にのんびりと歩いてみたいと思った。 守源寺の左の狭い道が、旧東海道である。箱根旧街道一里塚の大きな道標が目に入る。 今回はこの左手にある村営の東屋で小休止を取った。持参したビールと冷えたワインが旨かった。 |
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ルート 箱根湯本駅〜早雲公園〜早雲寺 〜正眼寺〜湯本一里塚 〜猿沢石畳道〜猿橋 〜須雲川〜鎖雲寺 〜須雲川探勝歩道〜割石坂 〜大澤〜大澤坂 〜畑宿本陣跡〜駒形神社 〜大黒天・守源寺 歩行距離 6.68km |
休憩所・トイレ 箱根湯本 早雲公園、早雲寺 須雲川村 鎖雲寺 畑宿 お休み処 名 物 寄木細工 箱根の伝統工芸 たんすや小箱、盆等 畑宿寄木会館 |
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