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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(20)

箱根・畑宿〜笈ノ平(甘酒茶屋)
Hatazyuku-Oinotaira

畑宿一里塚
  畑宿を出ると、直ぐのところに一里塚がある。日本橋より23番目(92km)の一里塚で、戸塚の信濃坂一里塚と同様に、旧街道の両側に1対の塚がきちんと残されている。
  但し、ここは発掘調査をして、当時のままの大きさ、構造で再現されたものである。
  山の斜面にあるため、周囲を切り土し、盛り土と礫で平坦面を作り、その上に土を盛って、頂上に目印用と日陰用の樹木を植えたもの。当時は右側に樅の木、左側が欅が植えられていた。  
畑宿一里塚
  一里塚の間の旧街道は石畳となっている。街道は2間幅(3.6m)で、石畳は1間幅(1.8m)に作られている。
  現在残っている石畳は、文久3年(1863年)2月、孝明天皇の妹和宮内親王が、14代将軍家茂のもとに降嫁されるにあたり、その前年の文久2年に改修工事が行われたものだ。
  しかし、和宮内親王は、今切りの渡し(浜名湖)の名称が好ましくないとの事で、東海道を通らずに中仙道を通る事になった。  
西海子坂
  なお、この街道に初めて石畳が敷かれたのは延宝8年(1680年)で、今でも旧街道の所々に残され、国の史跡に指定されている。
  今宿の一里塚を過ぎると、再び急な坂道となる。西海子坂(さいかちさか)と呼ばれていた坂だ。ここも昔からの石畳が残っているところである。
  路傍の案内板には、旧箱根街道の石畳の構造が絵入りで紹介されている。国立公園であるだけに、道標や案内板が街道沿いに多数設置されているのはありがたい。
県道、湯本元箱根道
  西海子坂を登り切ると、県道732号線(湯本元箱根線)に出る。箱根七曲りと呼ばれているところだ。
  旧街道は、この七曲りをほぼ直角に突っ切る形となっている。しかし、かつての急坂の殆どが崩れ落ち、今は階段となっているところである。
橿木坂
  県道沿いの歩道を少し歩くと、旧街道はまた階段となる。もと橿木(かしのき)坂と呼ばれていたところであるが、崩落し、今は急な階段となっている。
  橿木坂は、「新編相模国風土記稿」に、「高く険しい崖に橿木あり、故に名を得」とある。
  「東海道名所日記」には、険しきこと道中一番の難所なり。おとこ、かくぞ詠みける。「橿木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの、涙こぼる」と。
橿木坂分岐
  急な橿木坂の階段を登り切ると分岐がある。右に行くと、県道723号線で見晴らし台のあるところである。旧東海道は左である。
  案内標識があるので迷うことはないが、結構変化に富んだ面白いコースとなっている。  
旧街道山根橋の袂
  分岐を左に曲がると、急階段から開放され、平坦な道となる。少し歩くと、ベンチが3つ設置されていた。狭いが、平らになった所である。
  丁度、紅葉が真っ盛りであった。ここで、連れの持参したワインをいただきながら昼食とした。いつもながらの至福の一時である。
山根橋
  沢に架かる小さな木の橋は山根橋である。橋を渡ると所々に短い階段はあるが、殆どがだらだら坂の山道となる。
  紅葉は見事で、空気は綺麗とアルコールのせいではないが、ピクニック気分の味わえる道である。
旧街道
  山根橋を渡り、小さな階段を登ると、まただらだら坂となっている。逍遙に相応しい道である。
  急な山斜面を登ったり、横切ったり、九十九折(つづらおり)の道は、まさに唱歌「箱根八里」に唄われている「羊腸の小径」である。改めて、歌詞の素晴らしさに感心した。
  途中で、中高年の4人組とあった。畑宿まで下って行くと言う。そういえば、出会う人は、登りより降る人のほうが多かった。恐らく、急な登りを敬遠したのであろう。
甘酒橋
  だらだら道をしばらく登ると、沢に架かる木の橋甘酒橋を渡る。笈ノ平(おいのたいら)から流れる沢である。
  ここからが、また急な坂となる。猿滑坂(さるすべりさか)と呼ばれている。
猿滑坂
  坂の途中に猿滑坂の石碑が建っている。案内板に「殊に危険、猿猴(えんこう)といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」とある。
  前述の西海子(さいかち)坂、橿木(かしのき)坂、そしてこの猿滑坂が旧東海道きっての急坂といわれていたところである。
追込坂
  猿滑り坂を登り切ると、再度県道に出る。この県道にかかる歩道橋を渡ると、追込坂(おいこみざか)の入口となる(写真左)。
  「新編相模風土記稿」の万葉がなを見ると、ふっこみ坂と書いてあるところである。
  いよいよ笈ノ平(おいのたいら)に向けての最後の坂となる。  
笈ノ平、箱根旧街道資料館
  緩い坂の追込坂を登ったところが二子山と文庫山の鞍部、笈ノ平である。「東海道名所図会」では老ヶ平(おいがたいら)と記されている。
  親鸞上人が弟子性信房と訣別した所として知られている。また、講談で御馴染みの忠臣蔵「甘酒茶屋」では、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討ち入りに向かう途中、ここで馬子にいいがかりをつけられ、大事の前であったため、馬子に詫び証文を書いたと所となっている(事実とは違うが)。  
甘酒茶屋
  この笈ノ平に休憩所と併設して建てられているのが箱根旧街道資料館である。旧東海道を往来した旅人達の衣装や、道具などが展示されている。
  資料館の先にあるのが有名な甘酒茶屋である。笈ノ平が畑宿と箱根宿の中間に当たるため、ここで休憩する人が多かった。江戸時代は、ここに4軒の茶屋があり、大層繁盛していたとの事。
  その内の1軒が今でも継続して営業している。杉皮葺きの建物で、土間に椅子代わりの切り株が置いてある。甘酒(400円)と力餅(450円)が名物となっている。
於玉坂
  笈ノ平を出ると、於玉(おたま)坂である。路傍の石の道標に「於王坂」と彫られている。林間の快適な道となっている。
  元禄15年(1702年)、伊豆大瀬村の農家の娘たまが、関所破りをし、ここで獄門に掛けられたところとの事。
  この先、見事な石畳の続く白水坂、そして天ヶ石坂を登り切ると、街道は下りの権現坂に入り、次はいよいよ箱根宿である。



ルート
 
箱根畑宿〜畑宿一里塚
〜西海子坂〜橿木
〜猿滑り坂〜追込み坂
〜笈ノ平〜箱根旧街道資料館
〜甘酒茶屋〜於玉坂


歩行距離 2.37km


休憩所・トイレ

畑宿 お休み処
山根橋袂ベンチ
箱根資料館併設無料休憩所


名 物

甘酒茶屋
甘酒と力餅


 

箱根湯本〜畑宿へ移動 目次 箱根宿へ移動します

0411/0509
Hitosh


歩行略図

箱根畑宿〜一里塚〜猿滑り坂〜追込み坂〜笈ノ平〜旧東海道資料館〜甘酒茶屋〜於玉坂
歩行 青線部
( 2.37km )







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