悠々人の日本写真紀行へ移動

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(21)

笈ノ平〜10箱根宿
Oinotaira-Hakonesyuku

白水坂
  笈ノ平を出て、林間の快適な於玉(おたま)坂となる。相模国風土記によると登り2町半とある。1町60間(108m)であるから約270mの登り坂となる。
  そして、次が見事な石畳の続く白水坂である。白水坂の白水はおそらく泉の意味であろう。福島県いわき市の池に囲まれた国宝白水(しらみず)阿弥陀堂を思い出した。
  写真の団体さんは、三島から来た総勢80人のパーティとか。この辺が、箱根東坂にハイライトでもあるため、バス2台に分乗して来た由。
二子山
  もくもくと歩く団体さんを敬遠して、坂の途中より、右の狭い道に入り二子山が見えそうな所に行った。勘があたり、予想通り目の前に二子山がくっきりと大きく見えた。そして左手には駒ケ岳もである。ここは、お薦めの場所である。
  二子山は向かって左が上二子山(1090m)、右が下二子山(1064m)である。駒ケ岳、神山、台ヶ岳などとともに箱根の中央火口丘である。二子山はその中で、箱根火山活動の一番最後に出来たものである。
上二子山と駒ケ岳
  二子山の頂上付近には、ハコネコメツツジと呼ばれる冨士火山帯特有のツツジや、サンショウイバラ、コイワザクラ、ヒメイワカガミなどが生育しており、現在保護のため登山禁止になっている。
  左の山は箱根駒ケ岳(1357m)である。こちらは今でもロープウェイで一気に登る事が出来る。頂上は広大な芝生となり、見晴らしの良い所である。
天ヶ石坂
  旧東海道に戻りしばらく行くと、かなり急坂の天ヶ石坂(てんがいしさか)となる。相模風土記によると、距離7間余(約13m)とある。畳石はごつごつした感じである。
  天ヶ石坂の谷側に巨石(方8尺余、2.4m)があり、天ヶ石という。もともとは天蓋(てんがい)石であったのが転訛したようだ。
  天蓋とは仏像などの上にかざす傘状のもの(広辞苑)のことである。
  坂の頂上付近に馬子唄の碑があり、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と彫られている。
権現坂
  馬子唄の碑を過ぎると権現坂である。ここから下り坂となり、周りは鬱蒼とした杉並木になっている。樹間から芦ノ湖が見えるところである。
  坂道の長さは約8町(864m)あり、八町坂とも呼ばれていた。
  途中に鎌倉時代の旧旧東海道(湯坂道)と交差している。それ以前(平安時代)の東海道(足柄道)が富士山の噴火で通れなくなってから利用さるようになった道である。  
箱根神社一の鳥居と駒ケ岳
  権現坂を下ると、道は舗装された道に出る。少し歩くと右手に大きな鳥居がある。箱根神社の一の鳥居である。
  箱根神社は天平宝字元年(757年)、万巻(まんがん)上人がここに丈六薬師如来を祀ったのが始まりである。後に頼朝の保護を受け、伊豆山、三島と並ぶ関東第一級の神社となった
  一の鳥居のある湖畔が賽(さい)の河原である。東海道名所図会では西の河原と紹介されている。江戸時代には130基の石仏や石塔があったが、今は54基しかない。
身代わり地蔵
  旧街道の左側に吾妻山日輪寺がある。参道入口には髭題目がある。その先左側の岩屋にこの身替わり地蔵がある。
  宇治川の先陣争いで名高い梶原景李(かげすえ)が、箱根を通りかかった時、背後から何者かに襲われた。父の梶原景時と間違えられたらしい。
  しかし、かたわらにあった地蔵が身代わりなって、かろうじて命が助かったという。それ以来、この地蔵は景李の身代わり地蔵と呼ばれるようになったとのこと。地蔵に背中には刀瑕が残っているという。
  なお、手前右の可愛らしいお地蔵さんには、延宝6年(1679年)と彫られていた。  
杉並木
  箱根の杉並木は、湖畔に沿って約300mほど残されている。徳川幕府が、旅人に木陰を与えようととして、道の両側に植えたものである。東海道では松並木が多いが、杉並木は此処だけである。霧の深い日が多く、松が育ちにくいために杉並木にしたようだ。
  第2次大戦の時、伐採されそうになったが、担当者(僧侶)の機転で助かったという。現在では国指定史跡として保護されており、約420本の杉が残されている。  
箱根一里塚跡
  杉並木に入って直ぐのところに、一里塚跡碑がある。江戸より24番目(96km)の一里塚である。
  かつては、盛り土をして、ここでは珍しく檀(まゆみ)が植えられていたとのこと。
  檀はニシキギ科の落葉小高木で、真弓とも書かれた。語源は、枝が良く撓(しな)うので、この木から弓を作った事による。  
箱根関所
  杉並木を抜け、恩賜箱根公園の横を左に入った湖畔にあるのが箱根の関所跡である。
  本御番所(ほんごばんしょ)と足軽番所が再現され、資料館も出来ている。
  中世の関所が関銭がメインであったが、箱根は幕府の政治的警察的目的であったため、厳重で通常の往来手形(パスポート)の他に、箱根関所宛の関所手形(ビザ)を持たないと通行出来なかった。
  但し、御三家と旗本は関所手形は必要なかった。俗に「入り鉄砲に出女」の取締りと言われたが、新居関所では鉄砲の取締りが厳しかったが、箱根はそうでなく、江戸からの出女(西国大名の子女)がメインであった。 
関所門
  その取締りにあたったのが人見女(俗称、関所婆)である。箱根関所は士分10名、足軽17名、そして人見女2名が一組であった。
  管轄は小田原藩で、11組編成されており、毎月交替で関所役を勤めた。非常時は、小田原藩から非番のものが駆けつけた。
  なお、箱根全山の監視が、此処だけでは出来ないため、他に根府川、仙石原、矢倉沢、谷蛾、川村にも裏関所が設けられていた。また湖上監視のため、関所の裏山には遠見番所が設けられていた。 
箱根宿
  関所を抜け丁字路を右折したところが、かつての箱根宿である。本陣6、脇本陣1、旅籠36軒の宿場であった。
  もともとは箱根山中には旅籠が無かった為、幕府の命により、小田原宿、三島宿より各50軒ずつ移住させ作った宿場であった。
  しかし、本陣の数は、東海道最大であったが、旅籠は減少した。関所の側で、本陣の多い宿場を敬遠したようである。旅人の多くは隣の三島か手前の小田原に泊まったようである。
バウル・シュミット碑
  なお、箱根宿の中心は、今は遊覧船とバスの発着所となっており、江戸時代の面影は全く無い。
  写真はその宿場跡の湖岸に建っている碑である。明治28年、24歳で来日したドイツ人を偲んで地元箱根町が建立したものだ。
  湖畔に「赤門」と呼ばれた別荘を建て、ここに40年も住んでいたという。あのドイツのライツ光学社の代理店を日本で経営していたひとである。箱根の美しさを世界に紹介した先駆者で、その優しい人柄で、箱根の人々からも親しまれていた。昭和10年、出張先の台湾で死亡。享年63歳とある。
芦ノ湖と駒ケ岳
  しかし、ここが元箱根宿であったことは一言も書いてなかった。関所跡だけで、観光優先の箱根町にとっては、他はどうでも良いように感じた。
  確かに、旧東海道で唯一国立公園に指定されているだけに、この辺は美しい景観である。
  芦ノ湖は、冨士火山帯の陥没火口湖(カルデラ湖)で、湖底には杉の大木が今でも立ったまま沈んでいる。また、古代人の集落等生活の跡がそのまま残されているという。
  湖面の標高725m、周囲21km、最深部43.5mの綺麗な湖である。
芦ノ湖遊覧船
  このまま三島まで歩こうかと思ったが、あと18kmもあるため、今回はここで中断した。この時期(11月末)は日が短いため、暗い下り道を歩くことになるのを敬遠した。
  ここのバスターミナルよりバス(箱根登山バス)に乗り、箱根湯元まで戻り、電車で帰途に着いた。その後、今回同行していただいたR氏と横浜の居酒屋で打ち上げを行う。



ルート
 

〜笈ノ平〜於玉坂
〜白水坂〜二子山〜天ヶ石坂
〜権現坂〜芦ノ湖〜箱根関所〜箱根宿


歩行距離 3.64km


休憩所・トイレ

箱根資料館併設無料休憩所
賽の河原
恩賜箱根公園
箱根町バスターミナル


名 物

わかさぎ料理
箱根町 本陣、箱根ホテル内 紫水


 

畑宿〜笈ノ平へ移動 目次 箱根峠へ移動

0411/0512
Hitosh


歩行略図

笈ノ平(資料館)〜白水坂〜権現坂〜杉並木
〜箱根関所跡〜箱根宿

歩行 青線部
( 3.64km )






街道写真紀行 TOP


悠々人の日本写真紀行

北海道|東北|関東|中部|近畿|中国・四国|九州|沖縄他


Hitosh