日本橋 日本橋を渡って、旧東海道へと1歩踏み出した。写真は日本橋の京都側欄干の柱頭である。その上に架かっている陸橋は首都高速道路のものである。 丁度、第32回日本橋京橋まつりで、案内の垂れ幕が架かっていた。 日本橋室町4丁目から京橋3丁目にかけて、今日の午後より車が通行止めとなり、東京パレードが盛大に行われる由。出演者総数、41団体2700名とのこと。 |
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日本橋高島屋 パレードを見てみたいと思ったが、今回は徒歩の旅の初日である。今日の目標地は品川宿である。歩けるかどうかさえ危ぶまれていたので、我慢してこの国道15号線(第一京浜国道、東海道)を歩き出した。 写真は日本橋2丁目にある高島屋のデパート前である。学生時代、得意の算盤(懐かしい・・)を駆使してお中元と、お歳暮の伝票計算のアルバイトをしたところである。 |
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東京駅八重洲口 正面のビルが東京駅の八重洲口側である。御馴染みの赤レンガ造りの駅舎は、この反対側の丸の内側にある。 東京駅は言うまでもなくJR東海道本線と、新幹線の始発駅である。新幹線で京都まで行けば、僅か2時間30分である。そこを今回は、徒歩で行くのである。トータルで何日かかるのだろうか、現状では全く予想が付かない。 旧東海道の全長126里6丁1間(約492km)を江戸時代の男性は、12日から15日で歩いた。1日約10里(39.7km)である。時速4kmとすると1日10時間歩いたことになる。今の人と比べると、かなりの健脚である。 |
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京橋擬宝珠 京橋の欄干の柱頭を飾った石の擬宝珠(ぎぼし)である。江戸時代、東海道で京へ上る際、日本橋を基点として最初に渡る橋の意で、京橋と呼ばれたとのこと。 昭和34年に京橋の下を流れる「京橋川」が埋められ、この擬宝珠のみが記念に残されている。なお、この擬宝珠は明治8年の石橋に用いられたものである。 |
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煉瓦銀座之碑 明治5年の大火で、銀座は全焼し築地まで延焼した。その後、当時の東京府知事により、銀座通りの建物は、耐火構造の煉瓦造り洋風2階建てに統一され、煉瓦通りと呼ばれた。 現在の銀座通り商店街形成のもととなったと、「煉瓦銀座之碑」に書かれている。 道を挟んで反対側には、「江戸歌舞伎発祥の地碑」のあるところだ。中村勘三郎が寛永元年(1624年)、この地で始めた興行したとのこと。現在の歌舞伎座はこの先の銀座四丁目の角を左に曲がった所にある。 |
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銀座通り口 日本橋、京橋を抜け、「煉瓦銀座之碑」のある交差点が「銀座通り口」となっている。 ここからが所謂銀座通りである。正式には銀座中央通りとなっている。 |
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銀座発祥の地 銀座2丁目にある銀座発祥の地記念碑だ。慶長17年(1612年)、ここに「銀貨鋳造役所銀座」が設置されたとのこと。 銀座の名前は明治になってから正式に使われたもので、江戸時代は新両替町で、通称が銀座町であった。 |
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銀座四丁目 銀座四丁目の交差点である。日本で一番地価の高いところとして知られている。中央の円筒のビルが三愛で、右の白いビルが和光で屋上の時計塔で知られた所だ。待ち合わせ場所として有名で、私も良く利用したものである。 交差点の左手に銀座三越があり、交差点の地下に、地下鉄銀座線の「銀座」駅がある。文字通り銀座の中心地である。 この交差点を右に曲がればJRの有楽町駅、そして左に曲がれば歌舞伎座となっている。 |
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新橋駅前 さらにこの銀座中央通りを進むと、左側に銀座松坂屋やヤマハホールがある。そして、首都高速のガードを潜ると右側にJR新橋駅のガードが見える。 今回は休憩を兼ね、ここで昼食をとった。日本橋を出て、わずか2.3kmで小休止が欲しくなった。写真を撮りながらであったので、約1時間もかかっている。予定の倍であった。これでは先が思いやられる気がした。 |
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新橋 東海道を挟んで新橋駅と反対側には新しい高層ビルが建っている。 銀座通りは、ビルの高さの調和が取れているが、新橋にくると、極端に趣が違う。高いビルもあれば、古くからの低い建物もあるという按配だ。 |
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新橋ガード 新橋は、仕事でも良く来たことがある。昼飯や、夜の一杯飲み屋で、手頃な店が多かったので良く利用したものである。その殆どの店は駅前の集合ビルに入ったが、今でもガード下にはそんな店が残っている。 他所行きの銀座に対し、新橋は普段着の街であった。なお、新橋は汐留川に架かっていた橋の名前で、新橋駅(汐留駅)は、日本最初の鉄道始発駅であったところである。 |
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ルート 日本橋〜東京駅八重洲口 〜京橋〜銀座〜新橋 歩行距離 2.96km 歩行時間 1時間 |
休憩所・トイレ 公園等なし 名 物 つくだ煮:新橋玉木屋(天明2年創業) 天ぷら:新ばし橋善(天宝2年創業) |
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