六郷川、川崎船着場 第一京浜国道(国道15号)の六郷川(多摩川)にかかる新六郷橋(全長446m)の途中より撮影した川崎側の船着場である。 この辺が、もと六郷川の渡しの船着場があったところだが、今はレジャーボートが係留されている。 この川を渡ると、いよいよ東京都と別れ、神奈川県の川崎宿となる。 |
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新六郷橋 新六郷橋の上から見た川崎側の写真である。歩道はここで、左下に下り、車道の下を潜り、右側に行くと旧東海道があり、川崎宿の入口となる。 新六郷橋の歩道を下ったところの左側に、明治天皇六郷渡御記念碑がある。 記念碑に埋め込まれている「武州六郷船渡図」には、明治天皇が渡御した時の模様が紹介されている。23艘(36艘との記録もある)の船を縦に繋ぎ、その上に板を這わせ、仮の橋を作って行列が静静と歩むさまが描かれている。 |
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明治天皇六郷渡御碑 右の灯明は、厄除川崎大師への献灯である。川崎大師(平間寺)はここから川沿いの道(大師道)を下り、18丁(1962m)の所にある。 川崎大師は大治年間(1126〜1131年)の開創といわれ、後北条氏の時代から弘法大師信仰の零場として賑わっていた。江戸時代になると、徳川家斉、家慶、家定、家茂らも厄除け参りをするようになり、御膳所、御成門も建立され、門前町も発達した。 川崎宿の繁栄は、この川崎大師の隆盛の影響も大きかった。それほどの賑わいであったという。 |
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万年屋茶飯屋跡 新六郷橋の車道の下を潜り、第一京浜国道の右側に出ると、旧街道沿いに万年屋跡の案内板がある。「江戸名所図会」にも紹介されている有名な奈良茶飯の万年屋があったところだ。 なお、奈良茶飯は、大豆、小豆、粟、栗などと共に茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、これに六郷川で採れたシジミの味噌汁が付いていたという。今でも、いかにも旨そうな茶飯である。 東海道中膝栗毛の中でも、ここで奈良茶飯を食うシーンが出てくる。 |
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旧東海道の道標 案内に従い歩を進める。今までの第一京浜国道の車の列が嘘の様に静かな道となっている。歩行者や自転車が主体の道路となっている。 川崎宿は、文久3年(1863年)には、総戸数641件、本陣2、飯盛旅籠33、平旅籠39であった。宿場は久根崎、新宿、砂子(いさご)、小土呂の町であったが、地名として残っているのは砂子のみである。 |
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川崎宿田中本陣跡 本町1丁目。この辺が川崎宿の中心の新宿と呼ばれていた所で、ここに田中本陣があった。 農政家田中兵庫こと丘偶(きゅうぐ、休愚とも)が田中本陣の主人で、のちに8代将軍吉宗に召しだされ、支配勘定格(代官)となった人である。 農政書「民間省要(せいよう)」などの著作がある。また、酒匂川の治水でも大きな業績をあげた人であった。 |
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宗三寺 砂子1丁目にある宗三寺の墓所の一番奥に、川崎宿貸座敷組合の建立による遊女供養碑がある。 宗三寺は、川崎宿の中心にあり、本陣や問屋場の近くにあった。鎌倉時代の初期に僧玄統が開いた古刹である。 後に宇治川の先陣で名高い佐々木高綱がこの辺を領した時の菩提寺でもあったという。 「江戸名所図会」に、ここの「本尊釈迦如来は一尺ばかりの唐仏」と紹介されている。 |
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川崎宿砂子、京急川崎駅付近 現在の砂子(いさご)地区である。川崎宿の中心であったところであるが、その面影は地名だけとなっている。京浜急行の川崎駅近くの繁華街で、人通りの多いところである。 旧東海道の砂子町(砂子通り)を抜け、JR川崎駅前の新川通り小土呂橋交差点(江戸時代の地名が使われている)を渡ると、小川町本通りとなる。 |
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東海道茶屋 程なく左側に東海道茶屋と書かれた店がある。便乗商法とは思っても、旧東海道を歩いていて、こんな店があると嬉しくなる。 和風創作料理が自慢の店で、魚介類が絶品とか。なおダチョウ料理も味わえる由。如何にも旨そうな店であった。 さらに、少し歩くと、川崎宿の京都側の入口(現馬島病院手前)となる。 |
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川崎宿京入口 宿場の京入口には、切石を積んだ土居があり、ここを出ると所謂八町畷(なわて)の一本道となった。なお畷とは田圃の中の真っ直ぐな道の意である。 ここに、幕末、外国人遊歩区域となった川崎宿の外国人警護のための第一関門が設けられた。 ここから保土ヶ谷宿までに19ヶ所の関門番所が設けられたとのこと。関門番所には、宿役人2名、道案内3名が詰め、非常の時は半鐘を鳴らし、近隣の番所と連絡を取ったという。 |
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ルート 新六郷橋〜川崎船着場〜万年屋跡 〜田中本陣跡〜三宗寺 〜砂子通り〜小川町本通り 〜川崎宿京側入口跡 歩行距離 1.96km |
休憩所・トイレ 無し 名 物 久寿餅(くずもち) 川崎大師の住吉(大正6年創業) 長十郎梨 、江戸時代大師河原で始まり、明治になって盛んになった。現在は多摩川梨として受け継がれている。 奈良茶飯 (万年屋、当然は今は無い) 大師海苔 戦後の一時期まで、浅草海苔の大半は 大師海苔であった |
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