悠々人の日本写真紀行

旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(5)

品川宿〜六郷川
Sinagawa 〜 Rokugogawa

天祖諏訪神社
  品川宿の浜川橋(泪橋)を渡ってすぐ右手にあるのがこの天祖諏訪(てんそすわ)神社である。「東海七福神」の福禄寿として知られたところである。
  古くは、浜川橋の架かっている立会川を挟んで、祀られていた神明宮・諏訪社と称していたが、昭和になって合祀された神社である。 
旧東海道
  浜川橋を渡り、この神社の前を抜けると、今でも静かな旧街道沿いの道となっている。旧東海道を歩いていて、始めての並木道となっている。
  今までの旧東海道沿いが、ずっと商店街であったが、この辺まで来ると、今なお薄暗い感じのする静かな住宅街の道となっている。
品川区民公園
  旧街道の左手にあるのがこの区民公園である。運河を埋め立てて作られたもので、細長い公園の中には、水族館や海水を利用した人工湖「勝島の海」まである。
     トイレ、ベンチも多数あり、木陰も多く、徒歩の旅の休憩にもぴったりのところとなっている。
鈴ヶ森刑場跡
  さらに少し進むと、街道沿いにこんもりした森がある。鈴ヶ森の刑場跡である。見せしめのため、刑場は街道沿いにあった。
  日光道中の小塚原(千住)とともに江戸時代の仕置き場である。江戸時代の刑罰は厳しく10両盗めば死刑であった。普通は伝馬町の獄内で処刑(打ち首)された。そして獄門の場合は、この鈴ヶ森か小塚原で首を3日間晒した。
  磔、火炙りの場合は、江戸市中引き回しの上、ここで処刑された。
火炙台、磔台
  火炙(ひあぶり)台の史跡保存会の説明板によると、「八百屋お七を初め火炙りの処刑者は、皆この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て足下に薪を積み、縛りつけて処刑された」とある。
  さらに左側の磔台の説明は「丸橋忠哉を初め罪人がこの台の上で処刑された。真中の穴に丈余の角柱が立てられ、その上部に縛りつけて刺殺した」とある。
  柱の穴は意外と小さい。穴の大きさから判断すると、ほぼ等身大の柱を用い処刑したのであろう。
髭題目の碑
  歌舞伎でも御馴染みの「南無妙法蓮華経」と書かれた髭(ひげ)題目の碑である。処刑者の供養のため、元禄11年(1698年)、池上本門寺の貫主(かんじゅ)日凱(にちがい)が建てたものである。
  歌舞伎の舞台(鈴ヶ森)では、この碑が大きく舞台中央に建てられ、幡隋院長兵衛が白井権八(実名平井権八)に「お若いの、待たっせえやし」と声をかける所である。
  鈴ヶ森での処刑第1号は、慶安4年の丸橋忠弥であった。その他、八百屋お七、天一坊、平井権八、白木屋お熊などが有名である。
第一京浜国道
  旧東海道はこの刑場跡のはずれで、京浜第一国道(15号線)と合流する。合流して直ぐ右手にあるのが、磐井神社である。この磐井神社は「延喜式」地名帳に記されている古社である。
  「江戸名所図会」によると、この社に鈴石があり、他の石で叩くと、鈴の音がしたという。これが、鈴ヶ森の地名の由来となっている由。
大森神社
  さらに歩を進めると、旧東海道は京浜第一国道と別れて、現在の美原通りに入る。その入り口付近の国道右手にあるのがこの大森神社(寄木神社)である。
  大森神社は天正年間(1573年〜1592年)の創建と伝えらている。黄金色に輝く像が岸に流れ着き、里の人が恐れて、沖に三度流したが、三度ともまた元の場所に寄り来たるので社を立て、この像を祀ったのが起源と言う。そのため以前は寄木神社と称していた由。   
貴菅(貴舩)神社
  旧東海道である美原通りは約1000mで、また京浜第一国道と合流する。合流して直ぐの所にあるのがこの貴菅(きすが)神社である。もともとは貴(きふね)神社である。
  水を司り、水利のある処に奉斎(ほうさい)さるをもって貴舩というとのこと。また「金船」として宝船の意味もあるとか。
  創建の時期は明らかではないが、江戸時代には大森村の街道に面した本宿の鎮守であった。その後菅原神社と合祀したので貴菅(きすが)神社と俗称されるようになった由。
梅屋敷公園
  さらに少し歩くと、第一京浜国道の右側にあるのが梅屋敷公園である。蒲田の梅屋敷として知られ、道中常備薬「和中散」の売薬所の庭園で、梅の名所であった。今は公園となっている。静かな処で、中で尺八を練習している若い人がいた。
  ここには里程標があり「距日本橋三里十八丁、蒲田村山本屋」と記されている。
蒲田、京浜急行羽田線
  第一京浜国道と交差している京浜急行羽田線の踏み切りである。京急蒲田駅と羽田空港を結んでいる線だ。この電車は車を停め、1級国道を堂々と横切っている。
  さすがに、今は立体交差の工事に入っているが、今時珍しい光景である。  
六郷神社
  祭神は応神天皇。頼朝が安房(千葉)から鎌倉入りの途中に立ち寄ったところと伝えられている。六郷一円の総鎮守で、江戸時代は六郷八幡宮と呼ばれていた。
  鎌倉時代から伝わる子供流鏑馬(やぶさめ)は、都の無形文化財に指定されている。
  入口には「東海道跡の碑」と神社の由来を書いた案内板がある。これによると、源頼義、義家の父子が、ここで源氏の白旗を掲げ、軍勢を募り、石(いわ)清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役で勝利を得たので、その分霊を勧請して創建したとある。
新六郷橋
  多摩川もこの六郷神社のあるところから下流は六郷川と呼ばれている。
  この六郷川に架かる橋が新六郷橋である。慶長5年(1600年)、家康が橋を架けたが、洪水で何度も流され、元禄2年(1689年)以降は船渡しとなった。
  今の橋の150m下流側にあった渡船場から、川崎側の50m下流の船着場への渡しであった。なおこの渡し賃が川崎宿の収入となり、大いに潤った由。因みに船賃は、1人13文(今の200円位)であった。
六郷川(多摩川)
  多摩川は、山梨県の笠取山(1941m)を源流とする川で、上流部は市ノ瀬川、丹波川といい、ここでは六郷川と言われている。大変な暴れ川であった。
  今は河川敷が緑地公園となっている。写真は六郷橋より下流側を見たものである。
  この橋を渡ると、いよいよ神奈川県の川崎宿である。



ルート
 
浜川橋(泪橋)〜磐井神社
〜大森神社〜美原通り〜梅屋敷
〜六郷神社〜六郷川(多摩川)

歩行距離 7.6km


休憩所・トイレ


しながわ区民公園
梅屋敷公園
池上公園

名 物
御前海苔(大井村〜大森村)
(当然は今は無い)


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0410/0501
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歩行略図
(青線部)

浜川橋〜梅屋敷
(4.25km)



梅屋敷〜六郷川(多摩川)
(3.39km)







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