高輪・泉岳寺 高輪の大木戸を抜けると、江戸城下町ともお別れだ。昔ならここで提灯を消し、見送りと別れを告げ、気持ちを新たに出立したことであろう。 その大木戸を抜け、少し歩くと右手坂上に泉岳寺がある。ご存知忠臣蔵で御馴染みの赤穂城主浅野家の菩提寺である。浅野家代々の墓と大石蔵之助を始めとする四十七士の墓のあるところだ。 |
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泉岳寺四十七士墓 急ぐ旅でも無いので泉岳寺に立ち寄り、墓前に手を合わせた。境内には四十七士の遺品を展示した義士館や、吉良の首を洗った井戸などが残されている。 また、境内には土産物屋、茶店などがあり、旧東海道を歩いていて、初めて観光気分になれるところである。 なお高輪という地名は高台に沿った真っ直ぐな道を高縄手道と呼んでいたことによる。ここから品川宿までは海沿いの道であったが、今は埋め立てられておりその面影は無い。 |
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品川駅前 泉岳寺に立ち寄った後、再び第一京浜国道(国道15号)に戻り、980mで品川駅前に着く。駅前にはパシフィックホテルや高輪プリンスホテルがあり、最近は新幹線も停まる駅となったところだ。 なお、パシフィックホテルの敷地は元薩摩藩下屋敷のあったところである。 |
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北品川、京浜急行踏み切り 品川宿は現在の品川駅周辺では無く、さらに京都よりの、京浜急行の北品川駅から青物横丁駅にかけての商店街がそうである。 第一京浜国道から分かれて、立体交差しているJR東海道本線の上の八つ山橋を渡り、京浜急行の踏み切りを渡ると、今までの雰囲気と全く違う商店街に入る。 |
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北品川商店街 ここが、旧東海道道である。道幅も狭く、車は一方通行となっている。 街路灯も統一され、全ての柱には旧東海道と書かれている。商店街にも何となく東海道に相応しい屋号の店が多いのには驚いた。 今まではJR東海道線沿いに歩いてきたが、ここからは暫くは京浜急行線沿いの道となる。 |
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旧東海道の商店 品川宿は江戸の玄関口として賑わっていた。東海道を上る旅人は、実際はこの品川宿を起点とした。また品川宿は北の吉原と並び、江戸の男達の遊び場でもあった。 軒を並べる旅籠は、旅人を泊めるだけでなく、近郊の寺社への参詣人の休憩、宿泊場所として、また飯盛り女目当ての客で賑わったという。 品川宿は江戸4宿の中では最も繁栄したところであった。今は、旧品川宿は商店街となっているが、昔の面影が残されているのが嬉しい。 |
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品海公園 本来なら一里塚のあったあたりである。ここに公園が作られ、「日本橋より2里」との道標が立てられている。この品海公園の横の海に通じる坂道が江戸時代の護岸用の石垣の名残が残されているところだ。 日本橋より8km、よくぞここまで歩いてきたものである。これからの先を考えると、気が遠くなるが、取りあえず今日の目的地である品川宿までは辿り着いた事になる。 |
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旧東海道お休み処 この品川宿には疲れた旅人用のお休み処が8つも作られている。ベンチが置いてあり、身体を休めることが出来る様になっている。お茶の接待も受けられるようになっている。 地域起こしに取り組んでいる「旧東海道品川周辺まちづくり協議会」が設置したものだ。 前述の品海公園にはトイレも設置されている。旧街道を歩いていて、街道沿いのベンチとトイレがこんなに便利でありがたいものとは思わなかった。 |
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品川宿本陣跡 さらに歩をすすめると、左側に品川宿の本陣跡がある。現存するものは何も無く、この標識のみであるが、この本陣跡が聖跡公園として残されているだけでも救いである。 品川宿は江戸四宿の一つで、東海道53次の第1番目の宿駅(初宿)として発達した。本陣は品川3宿(新、北、南)の中央である北品川にあり、参勤交代の諸大名や公家、問跡などの宿泊、休憩所として利用されていた。 明治元年、明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)となったことを記念して聖跡公園と命名された。 |
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聖跡公園 旧東海道を歩いていて、ものすごく感じたのが、明治政府が如何に江戸時代の史跡や地名を抹消し、どう明治天皇や所謂官軍の業績に塗り替えるかに腐心したかである。 この本陣跡もそうであった。公園の中にある本陣の跡は左上の看板だけで、それも平成になってから作られたものである。 立派な石碑や記念物はすべて東京市(都では無い)の建てたものだ。曰く、聖跡公園由来の碑、聖徳の碑、御聖跡の碑と立派な石碑が設置されている。 |
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荏原神社 すべてが明治天皇の行在所記念と、東京市がここを公園として整備し、一般に開放したかについての記述である。まぁ歴史とはこんなものであろう。前時代を否定して、新しい国づくりを行った来たのであるから。 左の写真は荏原神社の境内である。南品川の荏原神社と北品川の品川神社は、南の天王様、北の天王様と呼ばれ、ともに品川宿の鎮守であった。 |
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荏原神社・狛犬 荏原神社は709年創建と伝えられている。現在の建物は1844年に再建されたもの。境内の狛犬は日本一美しい狛犬と案内板に書かれていた。 例年6月上旬に行われる天王祭(かっぱ祭り)は、水難防止と豊漁を祈る祭りで、品川沖で催される水中渡御が特に有名である。 |
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品川神社 北品川に鎮座する品川神社は鎌倉時代からの古社で、徳川家光が東海道の鎮守と定めた。 神社の南側にある東海寺は、家光が創建し、開基は沢庵禅師である。当時は上野の寛永寺、芝の増上寺と並ぶ巨刹(きょさつ)であった。 東海寺を訪れた家光が、船で帰るとき、見送りの沢庵禅師に「海近くして 如何かこれ東(遠)海寺」と問うと、禅師は「大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し」と答えたという逸話が残されているところである。 |
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品川橋 目黒川にかかる品川橋である。北品川宿と南品川宿の境であった。品川宿の中心は北で、本陣も北であった。 品川はこの目黒川の河口に発達した宿場である。目黒川は、今は東京湾に直進しているが、江戸時代は河口付近で大きく左に曲がり、品川宿の東側を流れていた由。 旧街道を歩いていると、川があったため、左側が急坂になって落ち込んでいるのが良く分かる所である。 |
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目黒川 正面の橋が目黒川に架かる品川橋である。目黒川は武蔵野台地の湧水を集めて出来た川で、源流は世田谷区である。落語の「目黒の秋刀魚」で有名な川だ。上流は桜の名所ともなっている。 勤務先がこの川沿いにあった時、台風などが来ると、品川区の五反田から大崎にかけて、良く氾濫し大変であったところである。 |
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品川の松 説明板によると、この松は旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として植えられたもの。旧東海道が取り持つ縁で、29番目の宿場である浜松より品川区に寄贈された樹齢約80年の松とのこと。 斜めに傾いた幹は、風雪に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を偲ばせる見事な枝ぶりとか。 この他にも同じ趣旨の松が街道筋に植えられ、品川宿の面影を保とうとの姿には好感が持てる。 古い面影の殆ど無い旧東海道を歩いていて、こんな植木があるとほっとする。 |
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品川寺大地蔵 また、品川宿には神社仏閣が異常と思えるほど密集している。この品川寺(ほんせんじ)は、京浜急行の青物横丁駅の前にある。露座の大地蔵は、江戸六地蔵の1番で、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀の作とある。 その他、海蔵寺は品川の溜牢(ためろう)の獄死者を葬った無縁首塚(通称頭痛塚)、225人塚や、品川娼妓の霊位大位牌などがある。 妙蓮寺には丸橋忠弥の首塚、妙国寺にはお富与三郎のモデルとなった芳村伊三郎夫妻の墓、海雲寺には・・・等々筆舌に尽くし難いほどだ。 |
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勝島運河 旧東海道をさらに歩き、京浜急行の鮫洲駅付近からはこの勝島運河に平行した道となる。運河沿いの道に出てみると、昔の街道沿いの面影を感じられるところである。 以前、旧東海道は文字通り海岸沿いの道であったのであるが、今では街道筋からは海は全く見ることが出来ない。 |
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浜川橋(泪橋) 勝島運河に流れ込む立会川に架かる浜川橋である。と言うより泪(なみだ)橋の方が分かりやすい。江戸時代は品川宿の外れに、鈴ヶ森刑場があった。 刑場に引かれる罪人と家族がここで泪の別れをしたところである。村松友硯原作の映画「泪橋」の舞台となったところでもある。 浜川橋を渡ると、10分程で、鈴ヶ森刑場跡に着く。 距離にして700m弱のところである。 |
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ルート 高輪大木戸〜泉岳寺 品川駅〜北品川〜聖跡公園、品川本陣跡 〜荏原神社〜品川神社〜品川橋 〜品川の松〜浜川橋(泪橋) 歩行距離 6.2km |
休憩所・トイレ 泉岳寺境内 品海公園 聖跡公園(本陣跡) 鮫洲公園 品川宿お休み処 名 物 焼き海苔:品川屋(大正年間創業) 品川海苔(但し、今は千葉産のもの) 品川餅:木村屋 (江戸時代の「品川の餅」を題材にした白玉餅) |
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