芭蕉句碑(川崎市川崎区) 川崎宿の京入口を抜け、八丁畷(はっちょうなわて)の一本道を500mほど行くと、右手にこの芭蕉句碑がある。すぐ背後を走っている電車は京浜急行である。 元禄7年(1694年)5月、芭蕉は少年次郎兵衛を連れて郷里の伊賀(三重県)への旅に出た。当時としては老人である51歳の時である。 江戸深川の庵を発ち、品川宿、川崎宿を経ても名残は尽きず、門弟にここまで見送ってもらっている。 その時の惜別の句が 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」である。 |
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八丁畷駅(川崎市川崎区) 奥の細道の同行者であった曽良は、体力の衰えた芭蕉を心配し、この時、箱根の関所までも見送っている。 昔の旅は普通でさえ、危険が多く、命がけであった。況して、年老いた芭蕉や門人には、長の別れの想いがあったのであろう。実際に、芭蕉はこの年の10月、大阪で時世の句 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」 を残し51歳の生涯を閉じている。 なお、この石碑は文政13年(1830年)俳人一種が建立したものである。 |
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人骨供養碑 この芭蕉句碑の目の前にある駅が京浜急行の八丁畷駅である。この踏切を渡り、すぐ左側に八丁畷の人骨供養碑がある。 この付近で江戸時代から沢山の人骨が発見され、戦後になっても道路工事などで度々掘り出された。東京大学で鑑定したところ、江戸時代のものと判明。 当時の川崎宿で、震災や火災、洪水の災害で亡くなった身元不明の人を、川崎宿の外れのこの辺にまとめて埋めたものであろうとのこと。これらの人々の霊を供養するために、ここに慰霊塔が建てられている。 |
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熊野神社 なお、川崎宿から隣の市場(いちば)まの区間八丁(約870m)を畷(なわて)と言い、道が田畑の中をまっすぐに伸びていたので、この地を八丁畷と呼ぶ様になったとのこと。 八丁畷の駅の踏み切りを抜けると、川崎市から横浜市の鶴見区に変わる。 鶴見区の市場東中町にあるのが熊野神社である。歩き通しで疲れたので、この境内を借りて休憩した。 この神社は、他の神社と違い、不思議なほど、樹木が何も無い。広い境内ががらんとした感じである。 |
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市場銀座商店街 熊野神社は弘仁年間(810〜824年)、紀州熊野の別当尊敬の勧請と伝えられている。この神社の宮司家に伝承された神代神楽(じんだいかぐら)は、「市場神代神楽」として知られていた。 元禄3年の神楽に関する古文書が残されているので、それよりも古くから行われていた様だ。この神楽は、今は熊野神社では無く、同じ鶴見区の矢向にある日枝神社に受け継がれているとのこと。 左は熊野神社の鳥居越しに市場銀座商店街を見た写真である。この鳥居と京浜急行線「鶴見市場駅」との間に広がっている商店街だ。 |
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市場一里塚 この付近はかつては海辺で、魚介類、塩の収穫も多く、天文年間(1532〜1555)には魚介の市が開かれており、いつか村名も市場(いちば)と呼ばれるようになったという。 左の写真は日本橋より5つ目の一里塚(20km)である。街道の両側に5間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎(えのき)が植えられていた。 ここの一里塚は現在左側のみが残されている。昭和初期までは榎の大木が繁茂していたとのこと。 |
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鶴見川橋 横浜市では最初の一里塚となり、「武州橘樹(たちばな)郡市場村一里塚」の碑が建立されている。一里塚の背後の赤い鳥居は稲荷社のものだ。 一里塚を過ぎると、400mで鶴見川に着く。アーチ状のモダンな橋は「鶴見川橋」で全長119.6mである。 江戸時代は、ここに「鶴見橋」が架かっていたが、「鶴見橋」の呼称は、下流の第一京浜国道の方に取られてしまった。 |
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鶴見川 鶴見川は多摩丘陵を源流とする全長42.5kmの一級河川である。この鶴見川に架かる鶴見川橋(旧鶴見橋)を渡ると、かつての鶴見村に入る。 鶴見村は川崎宿と神奈川宿の間の立場(たてば、休憩地)として賑わっていたところである。 鶴見村の集落は、東海道に面して続いており、旅人目当ての茶屋が多数あり、米饅頭(よねまんじゅう)が名物であったとか。 |
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ルート 川崎宿京入口〜芭蕉句碑 〜八丁畷〜人骨供養碑 〜熊野神社〜市場銀座 〜市場一里塚〜鶴見川 歩行距離 1.98km |
休憩・トイレ なし 名 物 鶴見の米饅頭 鶴見駅東口 清月堂 |
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0410/0501
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歩行略図
(青線部)
川崎宿京入口〜鶴見川橋
(歩行距離 1.98km)
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