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旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(23)

箱根峠〜西坂・小枯木坂
HakoneTouge−NisiSaka Kokarekiizaka

箱根西坂旧道入口
  箱根峠の広大な駐車場に沿って右側が旧東海道である。そのまま整備された道を行き、右側のゴルフ場入口(芦ノ湖カントリークラブ)の道に入り少し行くと、左手に箱根西坂旧道入口(写真)がある。
  入口には、「是より京都百里、是より江戸25里」と彫られた石の道標がある。京都までは未だ100里(400km)もある。気持ちを改めて、いよいよ箱根西坂の急坂を下ることになる。
  この辺は茨が生い茂っていたので、付近の草原が茨ヶ平(ばらがだいら)と呼ばれていたところである。もっとも今はゴルフ場となっているが。
甲石坂
  箱根西坂は一部を除き、殆ど石畳となっている。三島市が整備したものだ。
  西坂の旧道の最初の坂を甲石(かぶといし)坂という。坂の途中に兜石(かぶといし)があったから、そう呼ばれるようになった。 
  甲石坂は、東坂と違い、殆ど一直線の明るい感じのする坂で両側が笹となっている。道は一面笹の葉で覆われ、石畳は隠れて殆ど見えないほどである。   
兜石跡
  甲石坂の途中左側に兜石跡の石碑(写真右手)がある。石碑には「指定史跡兜石跡」と彫られている。
  本物の兜石はずっと下の接待茶屋付近に移されている。現東海道(国道1号線)の幅を広げる時に邪魔になり移動されてしまったのだ。
  兜石の謂れについてはそこで紹介したいと思う。
石畳
  西坂はローム層で覆われていて、雨の日は歩けないほどの酷いぬかるみで滑りやすかった。その為、当初は周囲の竹を切り取って束にして、道全体に敷いたが保守が大変であったため、延宝8年(1680年)に幅2間の石畳に改修された。
  この辺まで下ると、笹の葉が無くなり、石畳が露出していた。石の表面が踏まれて平らになっているので、見かけによらず歩きやすい道であった。
接待茶屋バス停
  旧街道はここで現東海道に合流する。接待茶屋バス停のあるところだ。現東海道が大きくカーブしているところである。ここに接待茶屋があった。
  接待茶屋は、文政7年(1824年)、江戸の商人加勢屋與兵衛(よへい)が私財50両を投じ、是を基金として馬に飼葉(かいば)を、また他の茶店が閉店する冬場には旅人に粥(かゆ)と焚き火を無料で提供したのが始まり。
  まさにボランティアの原点であったようだ。
接待茶屋碑と道標
  現東海道から別れ、再び旧街道に入る。写真左に接待茶屋と箱根旧街道の説明版に石の道標がある。
  道標には三島宿二里二十一町(1町109m、10.3km)、箱根峠三十三町(3.6km)と彫られていた。
  笹の葉に覆われて解りにくいがここから約600mは当時の石畳が残されているところである。
永禄茶屋跡、徳川有徳公遺跡
  街道左手にある大きな石碑は徳川有徳公遺跡である。有徳公とは、八代将軍吉宗のことだ。有徳院が正式な謚(おくりな)である。
  吉宗がここの茶店で休憩した時、永楽銭を賜ったことから、以後この茶店は永楽屋と称したという。
   なお有徳公の碑は、箱根宮下の割烹料理店の鈴木源内の出資で昭和10年に建てられたもの。旧街道の反対側に兜石のあるところである。
兜石
  この石は兜を伏せた様な形をしていることから兜石(かぶといし)と言われている。また秀吉が小田原征伐(1590年)の時、ここで休憩し、兜をこの石に置いたことから兜石と呼ばれるようになったとの説がある。
  しかしこの説はちょっと信じ難い。当時既に天下様(関白)であった秀吉は、最早兜など着けていなかったであろうし、仮に着けていても、脱いだ時に石などには乗せずに、側近に渡すであろう。
施行平分岐
  旧東海道は左の荒れた方の道である。西坂には時々こういう分岐があり、迷うことがある。ここには幸い道標があり分かりやすかった。左山中城跡、三島宿、右施行平の書いてある。
  右の綺麗な道は、施行平(せぎょうたいら)方面で、約5分で行ける。施行平は東山魁美の箱根八里記念碑があり、古来より見晴らしの良い所として知られている。駿河湾と冨士が望めるところである。
石原坂石畳
  分岐から石原坂(いしわらさか)と言う。以前は石荒坂とも書かれていた。見事な石畳が残されているところである。
念仏石と供養塔
  石原坂途中の右側に大きな石と小さな石碑がある。石碑には「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と彫ってある。
  旅の途中で行き倒れた人を、山中城二ノ丸跡にある宗閑寺で供養して碑を建てたものと思われる。  そのためかこの大きな石は念仏石と呼ばれるようになった。
大枯木坂よりの眺望
  やがて、左側が開け、見晴らしの良い所に出る。箱根外輪山と、三島宿方面が見通せるところである。ここから先を大枯木(おおかれき)坂という。
  眼下には現東海道(国道1号線)が走っている。実に気持ちの良い坂道であった。
大枯木坂
  見晴らしの良い大枯木坂を下っていくと、箱根西坂で始めての集落に出る。写真右前方に見える集落である。
  民家の庭先を左に曲がり、現東海道を横断し、階段を下りたところから小枯木坂(こかれきざか)となる。石畳が整備されているところだ。
小枯木坂
  ここの石畳は未だ新しい。案内板によると「願合寺(がんごうじ)地区石畳」とある。721mにわたり三島市が平成7年に修復したものだ。
  可能な限り江戸時代の景観を保つようにしたとのこと。但し、石が良く残っていた188mの間は江戸時代の石を元の位置に戻して修復した。それ以外の元の石の少ないところは、神奈川県根府川町で採石した安山岩で復元したとのこと。
山中新田
  小枯木坂は新しい石畳と、そして見事な杉並木となっている。この辺は案内板によると山中新田という。
  新田の付いた村は、この他に笹原新田、三ツ谷新田、市山新田、塚原新田と旧東海道に沿って順番に三島まで続いている。
  これは、箱根宿と三島の間に村落が無く、人馬の休憩所も兼ね、三島の農家の次男、3男を移住させ開墾した新田である。
雲助徳利碑
  小枯木坂の石畳を気持ち良くリズムカルに下っていくと、坂の右側に雲助徳利の墓がある。杯と徳利が浮刻された墓標である。大酒飲みの雲助が、仲間に墓碑を作ってもらうとは、余程人に好かれた飲兵衛だったのであろう。
  説明板によると、元西国大名の剣術指南をしていた松谷久四郎が酒でしくじって国外追放となり、箱根で雲助稼業をしていた様だ。もともと腕の立つ上に、教養のある武士でもあったので雲助仲間から親分の様に慕われていたとのこと。  
現東海道と交差点
  当時の雲(蜘蛛)助は駕篭かきや荷運びを行う住所不定の人足のことで、どちらかというと悪いイメージの言葉であるが、何ともほほえましいエピソードである。
  雲助徳利の墓の前を過ぎると、現東海道と交差する。間の宿、山中宿のあったところだ。
  この歩道橋を渡ると、山中城跡内にある駒形諏訪神社鳥居の前に出る。



ルート
 

箱根峠〜茨ヶ平〜甲石坂〜接待茶屋
〜石原坂〜大枯木坂〜小枯木坂
〜国道1号線交差点(山中宿)

歩行距離 3.84km


休憩所・トイレ

箱根峠駐車場
甲石坂入口

名 物

箱根竹(篠竹)


 

箱根宿〜箱根峠へ移動します 目次 山中城址〜笹原一里塚へ移動します

0412/0601
Hitosh


歩行略図

箱根峠〜甲石坂〜接待茶屋〜石原坂
〜大枯木坂〜小枯木坂〜山中宿(国道交差点)

歩行 青線部
( 3.84km )






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