駒形諏訪神社 小枯木坂を下って、国道1号線(現東海道)を渡った所に駒形諏訪神社の鳥居がある。 この辺は、旧東海道の間の宿・山中宿のあったところで、今でもそれらしい集落が残されている。 鳥居を潜って、少し歩くと山中城の北丸のあったところに山中村の氏神である駒形諏訪神社がある。 |
||
カシの巨木 駒形神社前にあるカシの巨木(アカガシ)。樹齢500〜600年と推定されている。山中城址本丸への入口部分に聳えており、根回り9.6m、高さ25m、幹は地上4mの所で7本に枝分かれしている。空洞や損傷も無く、今なお樹勢は良好とのこと。 静岡県1,2の大木で、県指定天然記念物となっている。なお、山中城の本丸跡には、矢立の杉と呼ばれる巨木がある。こちらは樹齢500年、樹高31.5m。 共に山中城が秀吉により滅ばされる前(1590年、天正18年)からあった木である。 |
||
山中城跡薬研堀 本丸と二の丸の間には、V字状の薬研堀(やげんぼり)が掘られ、土橋がかかっていた。薬研とは、漢方の薬種を細かい粉にするための道具のことで、船の形をしており、中央部分がV字型に深く窪んでいる。 堀の底には、盛り土で格子状や梯子状になっており(畝堀(うねぼり)、障子堀とも)、一度掘に落ちると堀の中を移動出来ないようになっていた。 それらが再現され、城址公園として綺麗に整備されている。 |
||
山中城址櫓台 山中城は標高583mの地に二の丸(北条丸)があり、そこの上に櫓台が再現されている。写真はその上より撮影したものだ。 山中城は石垣は無く、土塁で築かれていた。北条氏康が小田原城を防衛するために永禄年間(1558〜1570年)に築いた城で、典型的な中世末期の山城である。 しかし、天正18年(1590年)、山中城の守兵4000人に対し、秀吉軍は何と3万5000人の大軍で攻め込み、半日で落城させてしまった。 |
||
宗閑寺 旧東海道沿いの右手山中城三ノ丸跡に宗閑寺(そうかんじ)がある。入り口には大きな山中城址記念之碑がある。 山中城で死んだ秀吉方と小田原方の両方の死者を弔うために元和年間(1615〜1624年)に創建された寺である。 境内には山中城守将松田康長をはじめ、副将間宮康敏らの北条方と、秀吉方の一柳直末らの墓がある。 |
||
芝切地蔵 さらに旧街道を少し下ると右手に芝切地蔵がある。山中村に巡礼姿の旅人が、急に腹痛を起こし、ここで亡くなった。 死ぬ間際に「故郷の相模が見えるように、芝塚を築き、その上に地蔵尊として祀って欲しい。そのお礼に、村人の健康を守ってあげる」と言い残した。 村人は旅人の言った通り地蔵尊を祀り、毎年7月19日を縁日として供養するようになった。 それに合わせて、「小麦まんじゅう」を作り、参拝に来た人を接待したが、その味が評判になり、三島だけでなく沼津方面からも沢山の参拝客が来るようになった。お賽銭と、まんじゅう代の利益で、山中村の1年分の経費が賄えるほどになったとか。 |
||
山中城址岱崎出丸跡入口 現東海道を横切ると、山中城岱崎(だいざき)出丸跡入口となる。右手は旧東海道の石畳である。 旧東海道はほぼ直線の急な坂であるが、現東海道は、車が通るため、勾配を低くするため、大きく蛇行している。従って何度も、車の多い現東海道を横断することになる。 左の階段を登ったところが出丸跡である。公園として綺麗に整備されている。 |
||
出丸跡 自然の尾根の上を利用した出丸跡よりの眺望は素晴らしい。周囲の様子が手に取るように解る所である。 階段を上がり、手前より御馬曲輪、岱崎出丸、そして尾根の先端がすりばち曲輪となっている。なお出丸とは本城より張り出して築かれた曲輪のことである。 |
||
山中新田石畳 岱崎出丸より旧東海道に戻り、杉並木の快適な石畳を気持ち良く下って行くと、左手に箱根八里記念碑がある。 |
||
箱根八里記念碑 記念碑には、北条早雲が主人公の小説「箱根の坂」の作家司馬遼太郎の 「幾億の跫音(あしおと)が坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ」 と彫られている。 三島市青年会議所歴史史跡特別委員会が旧東海道に設置した8基の記念碑の一つである。その側には小さな地蔵尊があった。 |
||
富士見平 杉並木を抜けると急に視界が開ける。富士見平である。生憎、冨士は雲の中(写真右上)となってしまった。 芭蕉がここで 「霧しぐれ 冨士を見ぬ日ぞ 面白き」 (野ざらし紀行)と詠んだところである。芭蕉の負け惜しみの気持ちが解る様な気がした。 なお、芭蕉の大きな句碑は、この先少し下り、現東海道と交差するところの富士見平ドライブインの前にある。 |
||
富士見平国道交差点 富士見平で東海道を横断するところである。芭蕉句碑のある富士見平ドライブインはこの写真の左手にある。 富士見平は東海道名所図会にも 「三島より海道筋二里ばかりにあり。正面に冨士山・三保の松原、はるかに見ゆる」 と紹介されているところだ。 |
||
上長坂 現東海道を横断すると、旧東海道はまた急な坂となる。上長坂という。 階段を下ると、真新しい石畳となっている。まるで公園のプロムナードの様な感じである。三島市は、旧東海道の整備に力をいれている様子が良く解り、歩いていてありがたかった。 |
||
笹原地区石畳 さらに下ると、笹原地区石畳と説明板にあった。この辺は笹原新田と呼ばれるところである。 ここから暫くは現東海道と並行した歩道を歩くことになる。そして、ホテル箱根路の手前から旧東海道は左に入る。 |
||
馬頭観音 旧東海道に入ると、すぐ右に小さな小屋の中に馬頭観音がある。馬頭観音は頭上に馬頭をいただいた忿怒(ふんぬ)の相をした変化観音である。馬頭明王とも言い、八大明王の一つである。馬が濁水を飲み尽くし、雑草を食い尽くすように、衆生の煩悩を断つ観音様である。 しかし、特に江戸時代では馬の保護神として広く信仰されるようになっていた。一番右の石には馬、牛の観世音菩薩と彫られていた。馬だけでなく牛までと、欲張っている。 |
||
上長坂より 上長坂より眼下に広がる三島方面の眺望は見事であった。 ここまで来ると大分山を下ってきた感じがする。右手のこんもりした林のところに笹原の一里塚がある。 |
||
笹原の一里塚入口 旧東海道の左に日本橋より27番目(約108km)の一里塚が片方だけ残されている。 こんもりした塚の上に大岡信の 「森の谺(こだま)を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うために」 の箱根八里記念碑がある。 なお大岡信は、昭和6年に三島で生まれ、文化勲章や菊池寛賞、文化功労者賞、読売文学賞等を受賞した詩人である。 |
||
笹原一里塚 一里塚の上に登ってみた。歴史を感じる鬱蒼とした頂きであった。 ここから、また現東海道を横切ると、次は急坂で知られたこわめし坂(下長坂)である。 |
||
|
|
|
ルート 駒形諏訪神社〜山中城跡〜宗閑寺 〜芝切地蔵〜岱崎出丸跡〜富士見平 〜上長坂〜笹原新田〜笹原一里塚 歩行距離 1.49km |
休憩所・トイレ 山中城址公園 岱崎出丸跡 名 物 小麦まんじゅう |
目次 |